シューマンのピアノ独奏曲の全曲をイエルク・デームスの全集で

c0021859_045157.jpg ちょっと前にシューマンの交響曲のことをいろいろ考えていたときに、シューマンのピアノ独奏曲全集などという酔狂なボックスがイエルク・デームスの録音であって、通して聴いてみた。
 私はシューマンは、たぶんシューマンらしさが聴けるのは歌曲とピアノ曲なのではないのかと思うのです。
 そして、その中でも神髄は「クライスレリアーナ」にあると信じて疑わないのですがそれはさておき、交響曲でのシューマンは幻想的で、2番、4番などは「楽想が切れ切れ」、「まとまりがなく」「幻想曲のよう」(以上黛敏郎談)ではあるのだけど、響きの厚みもゲルマン的シューマネスクの世界で大好きなのです。
 でも、やはりシューマンは交響曲ではシューマンの一面で、ベートーヴェンのように多くの作品が「交響曲」の方にベクトルが何らかの形で向いているというのではないと思うのです。
 ということで、シューマンの全容に少しでも触れるるため、このピアノ作品全集を作曲された順番にではなく、たぶんシューマンが最後に発表した「暁の歌」から逆に辿ってみることにする。
 するとシューマンが錯乱する直前に作ったこの曲の心境から、一般に病んだ精神が明るい土地柄で気分が良くなったと言われるデユッセルドルフでの曲もたぶんあの第3交響曲「ライン」を書いたすぐあとに作曲されたものではないかと思う「3つの幻想的小品」などさほど明るいものではない。やはり彼はけっこう病んでいたのではないだろうか。私には緊張感が途切れるようなところもあるように感じる。
 また、この頃の作品は「クライスレリアーナ」や「子供の情景」、「ダヴィッド同盟曲集」などの嵐のような感情のうねりや憧れが当然もう聴けるものではなくなっている。
 そして、でもしかし、「暁の歌」では終曲で私にはシューマンが辛いこの世から解放されて、ひとり安らかに「クライスレリアーナ」や「子供の情景」などで見せていた憧れをついに手に入れて、ついに楽園での平安を手に入れたように感じるのです。
 でも、聴き終えたあと、私の傍から音が、余韻が消えた後、さみしさが身にしみる曲でありました。

by yurikamome122 | 2015-04-11 00:46 | 今日の1曲 | Comments(0)