ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でシューマン作曲、交響曲第3番「ライン」

c0021859_714799.jpg  春爛漫、やはりシューマンは相応しく、ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団で第3交響曲「ライン」を聴いてみると、アムステルダムのコンセルトヘボウ大ホールの豊かな響きが、高原に吹く風のようでもあり、春の花曇りのような響きのオーケストラも結構豪快に鳴っていて、春の日差しの優しさを感じるように明るく、若葉が萌える深々とした森の中のように爽快すぎずロマン的で、自分のイメージしているこの曲そのものであるのです。

 シューマンのこの交響曲が、精神を患っていたがデユッセルドルフに赴任してかの地の明るい雰囲気の中、シューマンの気分も良く(そんなことはないはずだ、この時期の日記にも家計簿にも体調のかなり悪い記述がけっこうある)書かれたとか、3拍子の第1楽章がどうも「ずん・ちゃっ・ちゃ」にならずに2拍子にきこえ、リズム的にどうも居心地が悪い(これこそまさに様々に変化するライン川の水面の波のようではないか)とか、シューマンは管弦楽法がどうも苦手のようで、響きに色彩感がない(これは管弦楽法がヘタなのではなく、シューマンが意図的にそうした感じがなくもない、だんだん管弦楽法が熟達してきたはずの後年の作品の方が管楽器を塗りつぶす傾向があるように私にはきこえる。第4交響曲の改訂などはもう一聴瞭然、明らかに改定する前の方がスッキリしている。ガーディナーによれば、このシューマンの響きの重さは近代の大きすぎるオーケストラ編成のための響きのアンバランスが原因だそうだ。百歩譲って、もし響かないオーケストレーションだとしても、この演奏を聴けば感じるだろうゲルマンの魂である森の中の木霊そのものではないか。いずれにしても私にはシューマンがああいった響きをオーケストラからだそうとしていたのだと思う。)、そこでマーラーやワインガルトナーなどが楽譜に手を入れて、もっと聴き映えのする響きに変えて演奏していたなど、それらは恐らくは、そこいら中で語られていて、ゴールデンウィークまっただ中、春の心なしかハイな気分にはそんなよく聞かれる話に思いを馳せてもつまらないので、この作品が、この曲を作ったシューマンがのみ込まれていたロマン主義を時代背景とともにちょっと調べてみた。

 前期ロマン派と言っていいのかどうかわからないけど、結構メンデルスゾーンなどとひとくくりにされやすいシューマンはこの曲を書いたのが自由貿易の開放的な雰囲気に満ちていたかどうかは知らないけど、ハンザ同盟都市のデュッセルドルフの音楽監督に招かれた1850年、フランス革命から61年が過ぎている。
 7年来患っていた精神疾患が悪化し医者のすすめでドレスデンに移り住み、もう既に「タンホイザー」を発表済みだったドレスデンの宮廷楽長ワーグナーとも親交を結ぶも、ワーグナーが2月革命(バスティーユ襲撃からもう60年以上過ぎても、その余波はまだ収まっていないのでした)に参加しスイスへ亡命してしまい、シューマンの身辺が不安になったその後のことになる。
 シューマンをブラームスが訪ねる3年前で我が国ではペリー提督の黒船来航の3年前のこと。その頃のヨーロッパの文化はとロマン主義の恵みに溢れていたて、シューマンがこの曲を作ろうとしていたその頃は、後期ロマン派はもう彼の真後ろに並んでいたのでありました。
 ロマン主義は18世紀半ばに興った産業革命とフランス革命という変化に端を発すると言われている。
 産業革命による技術の発展でプロメテウスの火のように合理主義の追求で神をも恐れぬ大きな夢を見た人々は更に徹底的に合理性を追求し、さらなる夢を追いかけ鉄道や蒸気船などが生まれ人々の生活は激変の一途を辿る。しかしながら、その産業革命は農村の手工業に大打撃を与え、大都市に労働者として流入していき貧民街を構成するようになった。 科学の進歩や技術の発展は決して純粋に良いものとは考えられなくなっていった。
 政治的にも「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命の生んだ恐怖政治や、ナポレオンという独裁者の出現と言う矛盾(今のアラブ・中東情勢そのものではないか。彼らが平和と成熟をものにするには彼らの中で大きな戦いを経つつあと100年はかかるかも知れない。だけどその間にロマン主義のような稔りもあるかも知れない)がヨーロッパにロマン主義を起こす引き金となった。
 ロマン主義は冷徹な理性よりも、人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表現しようとする動きのこと。音楽においては、合理的仕組みを確立したのはバッハやハイドンで、古典派によって合理的、理性的、客観的音楽が確立された。その後にフランス革命などに触発されて、あるいは教会や王侯貴族から解放されて感情的、主観的、幻想的音楽、ロマン派の音楽の登場となり、音楽家が職人ではなく芸術家へと移行することにもなったというわけで。
 そしてそれが、ローマ帝国やその後以降の覇権争いも含んだヨーロッパ統一への動きから、民族・言語・領土の神話へのローカルな情熱へとベクトルが向かう。古典主義からロマン主義へ、即ちそれまでの古代ローマや古代ギリシャではなく、中世こそに彼ら独自のルーツがあるのだと言う思想への傾き、現代まで続くヨーロッパ分断の始まりになるのだけど、その結果音楽もローカライズされたものが徐々に増えてゆく。たとえば楽譜の楽想の表記も、シューマンは第2交響曲まで使っていたallegroやandanteにようなイタリア語表記をこの曲の前あたりからドイツ語表記に変えた。
 そして、その後は、「標題音楽」と「絶対音楽」という大変ロマン的な論争が起こり、シューマンと親交が深かった絶対音楽派のブラームスはシューマンの後押しで世に出る。そして、絶対音楽派の旗手となる。表題音楽派の旗手ワーグナーの「タンホイザー」をシューマンは盟友のメンデルスゾーンに酷評した。(ワーグナーもシューマンの音楽にはメロディーがないと酷評していた、メロディーがないって?、ブラームスを擁護していたウィーンの評論家ハンスリックがブラームスにちらりと言っていたおねだり「もう少し、もう少しだけメロディーを」と同じじゃないか)
 シューマンは、今回の曲のような交響曲を作りながら、どちらかというと彼自身絶対音楽派だと思っていたのかも知れない。
 ちなみに蛇足だけど、シューマンはワーグナーの「タンホイザー」の上演を後に接して評価に転じたとか。そしてワーグナーもシューマンに「あなたのピアノ五重奏曲はとても好きです」なんて書いて送っている。
 二人が会ったのはこの曲を書き上げる1年前、1849年シューマン39歳の時にワーグナーがドレスデンでベートーヴェンの「第九」を指揮した時に会ったのが最後だったそうだ。
 ブルックナー25歳、ブラームス16歳、マーラーの生まれる11年前の話。
その後に彼らがロマンを追い求めているうちに、植民地政策の失敗や民族紛争などにより国家間の格差はどんどん広がり第1次世界大戦の火薬の臭いがもうあたりにそこはかとなく立ちこめる頃になる。

by yurikamome122 | 2015-04-30 16:18 | 今日の1曲 | Comments(2)

Commented by momomo at 2015-05-06 13:04 x
このハイティンクRCOコンビのシューマンのラインは私にとって思い出のCDです。私が高校生だったころ今はなきFMファンというFM雑誌が当時の私の音楽の情報源でした。そのレコード推薦欄にこのCDが特選で載っていました。大学に入ったら自分で買いたいと思っていたCDです。期待通りの内容でしたね。またその後妻と付き合っていたころ、車の中でこのCDをかけたことがあったのですが、彼女は高校の文化祭に弦楽部のメンバーとして2ndバイオリンを弾いて、ラインがすごく好きだったと話が弾んだことを思いだします。
ところでハイティンクは今年来日するそうですね。どうしようか・・・
Commented by yurikamome122 at 2015-05-07 09:43
momomoさん、先ずはご返事が遅くなり申し訳ありません。
FMファンは懐かしいですね。FMの雑誌で最後まで残ったのがそれでしたか。
思い出の曲で、演奏なのですね。奥様とのお話、どんな内容だったのでしょう。演奏者側からのこの曲はいろいろと興味があります。
いろいろ語られているステレオタイプ的なシューマン像には私は疑問がありまして、実際演奏なさった人はいろいろと気づくところもおありかと存じます。
ハイティンク、今回がたぶん最後の来日でしょうね。
旬は過ぎていると思いますが、行くべきか行かざるべきか悩んでいます。
でも、そうしているうちにあっという間にチケットはなくなるのでしょうね。
彼の全盛期はこの録音をした頃ではないかと思います。
このオーケストラは彼にとって必要なオーケストラだったのではないかと、そう感じています。
コメントいただけてありがとうございます。
感謝です。
すてきな奥様にもよろしく。