サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団で、ハイドン作曲、交響曲第100番「軍隊」

サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団で、ハイドン作曲、交響曲第100番「軍隊」_c0021859_6352852.jpg サヴァリッシュのハイドンなんて誰も褒めないのだけど、あの端正な姿勢で、知的な顔立ちとつぶらな眼鏡の奥の鋭い瞳の校長先生のようないでたちの彼は、以前は何を聴いても音楽がホッとしない結構強引な印象を受けて、このハイドンなどは、あの頃自分のハイドンの印象は、「怖くないグリム童話」のような多少のメルヘンと、甘いミルクたっぷりのビズケットのような印象があったような気がするのだけど、サヴァリッシュのハイドンのリズムは強引に、「楽しそうに強制されて強引に」スイングしていたような、そんな違和感を持っていたのだけど、どういうわけか、今ではもっと乱暴な演奏のハイドンばかり聴かされているせいか、サヴァリッシュの強引さをこの録音から今は聴き取れていないのは何でなのか自分でもよくわからないのです。
 テニスボールが弾むような彼の手の動きと、マヨネーズをこねるような左手にオーケストラが一糸乱れずコントロールされている様が聴き取れて、しかもその弾むようなリズムに堂々としたベースの響きが知的な遊びがこぼれ落ちるハイドンののこの曲の、ハイドンらしい惚けた感じと下品にならない、文部科学省御用達の典型のようなところのバランスした、そう、このバランス感覚。悪意とユーモアのバランス、下品と上品のバランス、しなやかさと過激さのバランス。サヴァリッシュのコントロールが最高にニクいと思わせるところ。
 そして、ウィーン交響楽団の魅力的な事と言ったら。この頃のウィーン・フィルの魅力的なことは格別なのだけど、よりスタンダードなウィーン風がハイドンには心地よくて、ウィーン・フィルほど個性が強くなく、そしてフェロモンも少なく、その分清涼で構成感があって、このオケも全然イケてる。
 この曲ではこの当時1300円で買ったこの演奏が個人的には一番しっくりくるのです。

 とはいえ、ハイドンがこんなに好きになったのはクラシックを聴き始めてもうかれこれ40年くらい経つけど、ここ20年と言ったところ。ハイドンはたとえばベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーや今ではマーラー、ブルックナーなんかよりも聴いていてつまらないというか、そう思っていたのですよ。
 まぁ、それは、当然作られた時代からして曲の目的がルールに従いつつもウィットで知的好奇心をそそるような貴族たちの知的なエンターテイメントとしての役割というか目的というか、ロマンは以降の一般民衆を相手に大見得切って人をうならせたり、泣き節で人を泣かせたりするのとは違うから、聴く人、その対象にする聴衆が違うからなわけで、だから当然マーラーやブルックナーのように聴かれたらたまらないわけで、ハイドンが生きた時代と今私たちが生きる現代の違いがそこにはあるのだけど。
 でも、ハイドンの頃のそんな音楽の語法が耳にきこえてくるようになると、ハイドンがとっても身近に感じて、いろいろな楽器のメロディーや表情の対話や戯れるのを楽しんで、ハイドンの粋が心地よくも楽しかったり。

 この「軍隊」だって、以下、独断と偏見で。
 冒頭「レ~ソ」って言う上る音での序奏、「(このクッキー、はい)ど~ぞ」の「ど~ぞ」のところだけのような。ここで私は思うわけです、何を「どうぞ」ナンだろうって。そして、「ほらっ、ほら、ど~ぞ」また声色変えて「どうぞ」って、そして「これは、だから、・・・・」的勿体ぶったり、そして、幾度も「どうぞ」とすすめられて、どうもちゃんと説明をしてくれない音楽は、そのうちに優しかった「どうぞ」が脅すようにすごみを帯びて、またニッコリ微笑んで、「ジャンジャンジャンじゃ~ん」と、ちょっとハイドンに悪戯されたような気にもなりながら、その後に始まるのが軽やかな笛の音による本当の始まり。
 でも、その後もコロコロと軽快に流れながらも、椅子取りゲームでうまく取れた椅子に座ろうと思った瞬間サッと椅子を引かれそうになったりと、思わず転ばないように気が抜けない。
 そんなウッカリするとからかわれた気もしないでもなかったり、悪戯されたような感じだったりゲームのように、どんどん進んでゆくわけで、そのあたりはもう音楽の知性のゲームの様相を呈しているというわけで、これにはまるともうハイドンの虜。

 ところで、「軍隊」の名前の由来はと言えば、それはもちろんそこらでこの曲の解説の定番のようによく書いてあるのだけど、その軍楽隊に関して少々。
 ハイドンが活躍した18世紀、ヨーロッパでは「テュルクリ」と呼ばれるトルコ趣味がはやったわけで、これが広範に及び、トルコ風ファッション、音楽、コーヒー、アラビアンナイトなど大変な流行をしたらしい。たとえばモーツァルトやベートーヴェンも「トルコ行進曲」、モーツァルトはオペラなんかでもトルコが出てくるのはご承知の通り
ハイドンもその流行を取り入れたワケなのだけど、。
 これはオスマントルコが西方へ侵攻し、15世紀半ばにはバルカン半島一帯を、16世紀には中央ヨーロッパ、北アフリカを掌握。そして1529年、1683年と二度にわたりウィーンを包囲し、ヨーロッパに「オスマンの衝撃」をもたらすワケです。
 火砲の扱いに習熟し一糸乱れず行動するオスマントルコ軍とそれにともなった「メヘテル」と言われる音楽は、ヨーロッパの人々に恐れられ、そしてエキゾチックな趣味と響きは興味の対象となり、この「メテヘル」が今日の、そこいらでよく演奏される行進曲の基になったと言われている。
 そんなわけで、この音楽は次第にヨーロッパ各国の宮廷や軍楽に取り込まれてゆくことになった。

 ハイドンは「テュルクリ」全盛の1761年、29歳の時から20年以上にわたり奉職していたヨーロッパ随一と言われたエステルハージ家で、代替わりによる経費節減リストラのため、オーケストラの大幅人員削減(ハイドン自身とコンサートマスター他数名を残して全員解雇)で58歳で暇になって、幾つもの転職(と言うか事実上の再就職)の声はかかっていたが、楽団員同士のいざこざに頭を痛めながらも当時ヨーロッパで一番と言われたエステルハージ後としてはどれもあまり魅力的に感じなかった。
 そんな彼の元に、「ハイドン先生、私はロンドンのザロモンでございます。お迎えに上がりました」とやってきたヨハン・ペーター・ザーロモンの非常識に破格の待遇のロンドン招聘の話に乗るわけで、モーツァルトの「先生、あなたは年を取り過ぎています」と言う大反対に「イヤイヤ、私はまだ若いから大丈夫」と言って、自分を若いと思っている初老のハイドンが渡英をすることになり、結果後世はその初老の冒険心の恩恵でこの交響曲を含むザロモン・セットやオラトリオ「天地創造」などの名作を今でも楽しめることになるわけだけど、(モーツァルトは、ハイドンにこの後会うことはなかった。ハイドンが戻る前に亡くなってしまった)
 おそらくはこれらはよく聞くこの曲の話で音楽に時間にも習った気がする。(ザロモンというのは、フェリックス・メンデルスゾーンの母方の親戚という話は、関係ないからたぶんあまり話されないだろう)

 ところでそのロンドンの成功には、たぶんハイドンやザロモンが意図したわけではないけども、実はちゃんと下準備ができていた。
 当時のロンドンは産業革命による恩恵で豊かだった。ヘンデルの前例があるように、音楽家には大変に魅力的だったらしいく、そこにバッハの息子のヨハン・クリスチャン・バッハもロンドンで大活躍をしいて、そのときのクリスチャン・バッハの演奏会でハイドンの作品を取り上げて、大変に評判がよかった。
 そんな状況があってこそ、ハイドン本人の登場は大歓迎を受けた、当然この楽旅は大成功だった。(但し、演奏中「しゃべる」、「眠る」、「笑う」のロンドンの聴衆のマナーの悪さには恐れ入っていたようだ)
 これに気をよくして2度目の渡英が62歳の時。この時に今回演奏されるこの曲が作られた。前回の反省も踏まえ、今回のシリースは曲そのものをやや解りやすくしてあるのだそうで、いやいや、そんなことはない。
 初めに記したようにこんな子供の歌のような親しみやすさの中に様々なことが起きていたわけだった。これにハマるともうハイドン大好き。

by yurikamome122 | 2015-07-05 06:36 | 今日の1曲 | Trackback | Comments(0)

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