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明後日が参議院選挙で、今日「カルミナ・ブラーナ」を聴く意味

c0021859_1833189.jpg  11世紀から13世紀頃に成立したと考えられている「カルミナ・ブラーナ」が発見されたのは19世紀初めの1803年、と言うことはモーツァルトの死後10年以上が過ぎて、ベートーヴェンが「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた翌年、交響曲第2番の年。
 がしかし、出版されたのはそれから50年近く経った1847年。中国がアヘン戦争や香港割譲、そしてイギリスがアヘンを中国に売りつけたお金のマネーロンダリングのためにHSBCが設立されたのもこの頃。オルフの生まれる50年くらい前と言う時代。
 ところで、この「カルミナ・ブラーナ」が成立したと言われる11世紀から13世紀という時代は、実はワーグナーの「ニーベルングの指環」の元ネタである「ニーベルンゲンの詩」や「サガ」などの成立とほぼ時を同じくする。
 で、イスラム世界ではセルジューク・トルコが全盛、キリスト教世界のヨーロッパでは東西ローマ帝国、神聖ローマ帝国の時代。十字軍の遠征が始まり、戦争や交易で国境を越えた交流で異文化との交わりと進化が進みつつあった。そして、我が国では平安時代から鎌倉時代頃となる。この時代、洋の東西を問わず黎明期だった。

 カール=オルフは1895年、ドイツ帝国のミュンヘンで生まれた。フランスはと言えばフランス革命のあとの幾度かの王政復古のあとの第三共和政、イギリス、イタリアは王国成立という古い枠組みの中での世界は自国利益追求、覇権主義まっただ中、イスラム世界ではオスマン・トルコの衰退から滅亡への道を進んでいて、つまり、現在の中東の混沌の根っこが張り始めてまさに芽吹こうとしていた時代。
 アジアを見ればと言うと、中国で清朝が国内混乱で衰退し、ヨーロッパ列強によりアヘン漬けで蝕まれつつあり、オルフが生まれたその年は日清戦争が終結し、朝鮮独立、世界は各々勝手に覇権を繰り広げていた。
 そんな世界情勢の中で、オルフがこの曲を作曲した。案外実は、現在の不安定な世界情勢の「そもそも」がこの時代だったから。

 そんなオルフは、19世紀末に誕生したとは言え、作曲家としては20世紀の人。ヨーロッパの音楽界では、その頃の世界情勢のように行き詰まりと混沌の時代に入ってしまった。
 たとえば、交響曲の父ハイドンなどがエステルハージ家で(当時は大編成と言われていた)20人前後の交響曲を作っていたのが、19世紀末になるとマーラーはその500倍の人数の「1000人の交響曲」を書いてしまい、また、ワーグナーが4日もかかるオペラを作り、調性は崩壊寸前にいたり、音楽の枠組みに関して「すべては18,9世紀に使い果たされてしまった」(オルフ談)わけで、それが11世紀から13世紀頃に成立したと考えられている「カルミナ・ブラーナ」を採用してこの曲を作った、つまりその状況への批判から発したものであったようだ。

 一般的なこの曲のプロフィールは、土俗的なリズムが繰り返される粗野だけど力強く、シンプルで誰にとっても親しみやすい音楽に乗せて、春を主題とする歌、酒場での歌(テノールが、焼かれる白鳥の哀れさを語ったかと思うと、バリトンが大修道院の院長に扮して賭け事を賛美、と思ったら今度は合唱が、老いも若きも皆が飲めと大騒ぎ)、そして徐々に盛り上がる(性)愛の悦びの歌の3部を構成した24 曲で、形而上性などみじんもない、ただ感性と本能に訴える音楽となっている。
 そんな曲の始めと終わりには、「おお、フォルトゥーナ」と破壊的な絶叫から始まり、それらの3つが我々人類にとって不変の運命であり、「運命の女神フォルトゥーナ」が回す車輪に操られているに過ぎない、という叫びが置かれていて曲全体を挟み込む。
 そして、曲の歌詞はその多くが中世ラテン語なのだけど、古い時代のフランス語やドイツ語なども用いられ、その粗野で素朴なリズムの繰り返しで呪術的な感興が呼び起こされ、そして徐々に増幅されるという仕掛け。
 なんてことはたぶん他でも書いてると思う。

 ところで、この曲が初演された1937年はと言えば、第1次世界大戦はもう既に終わっていて、その戦後処理でさんざんな目に遭っているドイツでは世界恐慌がそれに追い打ちをかけ、猛烈な飢えと失業でたまりかねたドイツに、彗星のように現れて、たった4年で瞬く間に、まさに神のように当時世界第2位の経済大国にまで押し上げ、ドイツの暮らしと経済を立て直したヒトラーが、圧倒的な国民の信頼と支持で、全く民主的に全国家的な熱狂の中で独裁体制を敷いて3年前。その2年後、初演の前年に「前畑ガンバレ」連呼のベルリン・オリンピック。そしてショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」の初演。
 そして我が国では、やはり猛烈なデフレ不況の中、まさに今のアベノミクス下の黒田日銀がやっているお札をガンガン刷お金をばらまく大規模な金融緩和で、デフレ経済を立て直した高橋是清が2・26事件で命を落とし、この曲が初演された翌1937年、近衛内閣成立、盧溝橋事件、そして中国に侵攻、首都南京を占領。日本はイタリア、ドイツと三国同盟を結んだ。(この時の中国は、間違えてはいけませんが、今の台湾の「中華民国」で、決して「中華人民共和国」ではありません)
 そして翌年の1938年に日本は第1次世界大戦の手痛い失敗を繰り返さないようにその教訓からの人類の知恵であった、(日本自らも参画して)組織された国際連盟を、満州事変の件で、その後の満州国との関わり合いに関しての意見の違いから脱退してしまう。その後はご承知の通り、軍部の独走が進み戦争へと突き進んでいったのでした。

 我々人類は「運命の女神フォルトゥーナ」が回す車輪に操られているに過ぎないのかも知れない。
 いや、あの頃の日本と、世界と、何が同じで何が違うのかよく考えて、まさに今、この曲を聴くのは必要なのかも知れない。


 やはり、ヨッフムの鉄板の演奏で。

by yurikamome122 | 2016-07-08 18:34 | 今日の1曲

メリー・クリスマス モーツァルト「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」K.158a」

c0021859_15384614.jpg キリスト生誕と聖母マリアをよろこぶこの曲は、モーツァルトが17歳の時にミラノで初演されて、きっとスケートの羽生弓弦のようなアッサリと凄いことをやっておきながら純粋で、屈託のなさを残すような年齢で作曲された曲なんだと思う。
 その後に演奏旅行で母を亡くし、あのヴァイオリンソナタ28番を書き、ピアノソナタ第8番を書き、やはり純粋な悲しみをまるで幼児の顔が泣き顔に崩れるようにアッサリと,それも誰もが最高に胸を締め付けるように書いて、そしてその翌年再びこの曲を改作してザルツブルグで発表している。神への感謝と最高の賛美を現して。
 人生の様々な困難や苦痛や悲しみ全てがモーツァルト自身へのかけがえのないプレゼントで、まるでモーツァルト自身そう自覚していたかのようにも感じる。
 そんな目に遭わずにすんでいるここ日本で、メリー・クリスマス。


(歌)
踊れ、喜べ、幸いな魂よ、
祝福された魂よ。
美しい歌を、繰り返し
みんなで天を讃えよう

(語り)
雲や嵐はまぶしい日の光で消え去り
ふいに穏やかな平和で正義の日々がやって来た。

(歌)
みたされていた闇夜から
喜びに満ちた夜明けがやってきた
立ち上がれ、今まで恐れていた人々よ
たくさんの百合に花を抱えて
幸せに満ちた夜明けに進もう

穢れなき乙女たちの栄光の魂(であるマリア様)
悩める心に慰めと平和を与えてください。
気持をなぐさめてください。

アレルヤ


(Aria)
Exsultate,jubilate
o vos animae beatae.
dulcia cantica canendo
cantui vestro respondendo
respondendo psallant aethera cum me.

(Recitativo)
Fulget amica dies, iam fugere
et nubila et procellae;
exortus est iustis
inexspectata quies.
Undique obscura regnabat nox,
surgite tandem laeti,
qui timuistis adhuc,
et iucundi aurorae fortunatae
frondes dextera plena
et lilia date.

(Aria)
Tu virginum corona,
tu nobis pacem dona.
Tu consolare affectus,
unde suspirat cor.

Alleluia.

ユリア・レジネヴァの歌で


by yurikamome122 | 2015-12-24 14:57 | 今日の1曲

「第9」の後の祭り② 演奏の伝統に関して、ベートーヴェン、交響曲第9番(ワーグナーによるピアノ版)など

c0021859_6125917.gif 実は「第9」の初演はベートーヴェン自身耳が聞こえていないので、あの演奏が正しかったのか初演時の伝統などアテにならない。実は初演から約2週間後の再演の失敗はこの辺にもあるのではないかと勘ぐりたくなるわけで、今日の「第9」の演奏の伝統をひもとく。

 パリの音楽院管弦楽団の創設者で初代指揮者、フランソワ=アントア-ヌ・アブネックはかなりのベートーヴェン・ヲタクであったらしく、私の知っているあのクリュイタンスのパリ音楽院管弦楽団で(と言うかパリで)ベートーヴェンばかり演奏しまくり、彼がいないと今日のベートーヴェン像のでき方が違ったものになったかも知れない。
 彼は「第9」を徹底研究した、3年間も。そして何度も何度も何年にもわたりそれをひたすら披露し続けた。
 そのアブネックの「第9」を聴いて感銘したのがワーグナーで、ワーグナーはその「第9」のスコアが高くて買えなかったので図書館に通い詰め1831年、ピアノ編曲版を完成させる。そしてこの曲に関する論文も発表し、今日「第9」の演奏の基本になるのはこの論文によるところが大きいのだそうだ。
 先の理由でアテにならない初演時の伝統をなんとか考証し検証し、できうる限り意図をあの殴り書きスコアからすくい上げ。それをアブネックが長年丹念に研究し、また他の人もいくつかの試みをして、そしてワーグナーによりやっと作品本来に相応しいかたちが日の目を見たと言うことらしい、そう言う専門家もいる。
 ワーグナーは後にバイロイトの歌劇場で演奏する自身のオペラ以外はこのベートーヴェンの「第9」以外は許さなかった。ワーグナーはアブネックのおかげで「第9」ヲタクになった。
 そして今日の「第9」演奏の伝統がここに確立されたといって過言ではないワケです。

 ところで、ワーグナーも作ったというピアノ編曲版。最初のものは誰なのかはよく知らないけども、ベートーヴェンが没する1年前の1826年に17才のメンデルスゾーンが演奏した記録がある。その後に1829年にベートーヴェンの高弟で教則本で高名なツェルニーが出版しているし、翌30年にはシューマンも試みている。
 そしてこのワーグナー、先に書いたとおり翌年31年にやはりメンデルスゾーンと同じ17才で「第9」のアレンジをするけど彼はピアノがそう上手ではなかった。時々無理な音があった。またそしてベートーヴェンの雰囲気によく似た交響曲を作るけどもイマイチパッとしなかった、若いし。
 ワーグナーの岳父でありながら2最年長の伝説のピアノの名手、フランツ・リストはやはりアブネックの演奏に感銘し、この曲を2台のピアノ版にアレンジするのはワーグナーのアレンジから20年後の1851年のことであったのでした。
 ワーグナー版は小川典子さんのピアノと鈴木雅明とバッハ・コレギウム合唱団ほかの演奏がCDで聴ける。3楽章なんてやはりベートーヴェンのピアノ・ソナタのような澄んだ心が聴けるし、4楽章、スッキリと澄み渡った真っ新のこの曲のイメージが胸にしみてきたし、私にはこの演奏を聴くにつけ、ピリオド奏法の演奏よりも培った伝統の上の演奏の方がこの世界に近いような気がする。

by yurikamome122 | 2015-12-21 07:00 | 今日の1曲

「第9」の後の祭り① 後世への影響、たとえばシューベルト、交響曲第8番「グレート」の例

c0021859_6494429.gif 「第9」はベートーヴェンが亡くなったあともその騒動は終わらない。先ずはシューベルト。
 シューベルトは1797年、ベートーヴェンが25歳の時にウィーンで生まれている。どこかですれ違っていたかも知れないこの二人は、恐らくは言葉を交わしたことがない。
 シューベルトが「未完成」交響曲を書いた1822年、25歳のシューベルトは作品10のピアノ連弾曲を、ベートーヴェンへの献辞を添えて出版した。そしてその作品を持ってベートーヴェンを訪ねたが留守で会えなかった。恐らくはこれがたった一度の会話の機会だったが、運命はそれを許さなかった。ベートーヴェンが「第9」を初演する2年前のこと。
 その後の「第9」の初演に立ち会っていたかどうかはわからないけれども、恐らくは可能性がある。というのも1824年の「第9」の初演の翌年完成の交響曲第8番「グレート」(この曲は私にはシューベルトの「第9」であった。シューベルト作曲、交響曲第9番と書いてあった。その後に「第7番」(ブロムシュテット盤)などがあり、今では「第8番」と言うことになっている)の第4楽章にベートーヴェンの「第9」のオマージュが散りばめてあるといわれている。(貼り付けたyoutubeの音源の49分26秒くらいから)

 そんなことを思いながらノリントンの演奏を聴いてみると少し田舎の木の匂いの薫る演奏でありました。
ベームとウィーン・フィル、ブロムシュテットとドレスデンのシュターツカペレの味わいも捨てがたいけど、やっぱりベートーヴェンの後はこういう方がしっくり来るのかも知れない。

 後に病床のベートーヴェンはシューベルトの作品に触れることとなりベートーヴェンはシューベルトに賛辞を送る。
 シューベルトは死の数日前のベートーヴェンを見舞っている。そしてベートーヴェンの葬儀で柩を取り囲んで進む36 人の炬火を持つうちの一人だった。
 そしてその翌年、シューベルトもこの世を去る。

 この後、様々な作曲家が自作の中にオマージュとして、また手法を取り入れてゆくのは、たとえば音楽では有名どころではブラームスの交響曲第1番など、手法としてはメンデルスゾーンの交響曲第2番「賛歌」やマーラーの交響曲第2番「復活」なんてそうかも知れないし、ブルックナーの交響曲の初めの「ブルックナー開始」と言われる「原始霧」とか、あとはマーラーの1番も、その他前楽章の引用とかその否定とかはベルリオーズなんて結構やってる。映画ではスタンリー・キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」などもう後世への影響は多大なものがあるというわけ。そして、とうとう国歌にまでなったり、挙げたらたくさんでそろそろこの辺で。
 

by yurikamome122 | 2015-12-20 08:00 | 今日の1曲

ベートーヴェン「第9」その後④ ベートーヴェン作曲、カノン:神父様、私は病気ですWoO.178

c0021859_01413100.gif 死の前年、1826年の作品。
 病床のベートーヴェンはもう自信をなくして気弱になってこんな曲を作ったわけではないように見える日々を過ごしていたけど、実際はどうなのか。
 この曲はひたすらと言うよりたった45秒くらいの時間にア・カペラでタイトルの歌詞を歌うというもの。
 同じ時期に「そうあらねばならぬ」WoO.196や「これがその作品だ」WoO.197、アンダンテ・マエストーソ(「さらばピアノよ」)ハ長調 WoO 62などを作っている。
 あの第16弦楽四重奏曲を作った作曲者がなんだかサラリと作った曲のように感じるけどもやはりそれなりの苦痛や明鏡止水の心境を感じたりもする。
 どうぞ一度お聴きあれ。
 ベルリン・ソロイスツの演奏で。

by yurikamome122 | 2015-12-19 07:00 | 今日の1曲

ベートーヴェン「第9」その後③ ベートーヴェン作曲、弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調op.135

c0021859_1910571.jpg 死の前年、彼の作った最期のまとまった作品。
最終楽章に「ようやくついた決心(Der schwergefasste Entschluss)」「そうでなければならないか?(Muss es sein?)」「そうでなければならない!(Es muss sein!)」という言葉が書き込まれている。
 ベートーヴェンは後期の弦楽四重奏では多くの楽章があるものが多きのだけどこれは4楽章に戻っている。
 まるでエレジーのような第3楽章は全く不思議な諦観にあふれているわけです。
 ベートーヴェンは案外後世に自分をどう聴かせるかというコーディネートには長けていたのかも知れない。
 ともかくなにをも語ることが不謹慎であろうと思われるので、そう言う曲だという事のみで、やはりベルリン弦楽四重奏団の演奏で。

by yurikamome122 | 2015-12-18 07:00 | 今日の1曲

ベートーヴェン「第9」その後② ベートーヴェン作曲、弦楽四重奏曲第15番イ短調op.132

c0021859_3583498.jpg  ベートーヴェンは作曲者自身の人生が音楽に深く関わるようになった最初の偉大な作曲家だと言うことになっているらしい。
 そんなわけで、彼の歩んできた人生の苦難やら恋愛やらなにやらが彼の作風に大きな影響をしているわけで、1813年あたりからのスランプ以降の作品は特に後期に入り、室内楽指向が強まり、その作品群はそれこそ彼でなくてはあり得ないようなと言うところからも超越して諦観と浄化を経た幻想的で透明な響きと透明な心とどことなく宗教的な様相まで呈してくると言うことだと言う指摘もある。
 そんな中でも「ミサ・ソレムニス」と「第9」はその中でも少し様相が違う。それを指摘する専門家もいるし、聴けば私もそう思う。
 がしかし、この2作品のあと、他はやはり最後のピアノ・ソナタの世界がまだ戻ってきて、特にこの1825年作の弦楽四重奏曲第15番は重篤な状況から癒えたと言う(あとから付けたらしい)長大な第3楽章、静かな静かな神への讃美、感謝と喜びは「運命」などとはちょっと違う後期のベートーヴェンの、決して大声で語らなくても深く言葉を心に刻み込ませる老人の語り口の深みだと思う。
 この曲は、最終楽章には合体によりボツになった第9交響曲の器楽版で使う予定だった主題が転用されているらしい。
 演奏は、やっり私にはカール・ズスケがいた時代のベルリン弦楽四重奏団の毅然としたダンディズムと優しさを感じる演奏が一番しっくり来るわけです。

by yurikamome122 | 2015-12-17 11:08 | 今日の1曲

ベートーヴェン「第9」その後① 6つのパガテルOp.126をブレンデルで

c0021859_18421797.jpg 「第9」に続き完成したのがこれ、ベートーヴェン最後のピアノ曲。
 6つの小品集とはいえ通して演奏することを作曲者は希望している。まるでピアノ・ソナタのように。
 晩年のベートーヴェンの奥深い静かな洞窟の中の泉に手ですくった水のようにまるでカミソリのように手を切りそうに冷たいその水の、すくった手が鮮やかに見える透明感とサラリと零れてゆく無常感、枯淡の境地が聴ける。
 演奏はブレンデルのが一番しっくり来る気がする。
 この作品の第4番ロ短調Prestoはかの「第9」と旋律的輪郭の近似があると言われている。
 1824年5月7日の「第9」の初演の大成功は様々なところで語られているので詳細は記さない。
 その大成功のあと、約2週間後の5月23日に会場をもっと大きくして行われた「第9」再演は聴衆が集まらず失敗をしてベートーヴェンを慌てさせる。初演に集まった聴衆はベートーヴェンを久々に見ようと集まったのであって、あの音楽は結局当時の聴衆には受け入れられるものではなかったようだ。
 その後に保養地へ出掛け弦楽四重奏曲第12番と第15番を完成させている。
 「第9」はというと、その後の経過は、第4楽章を器楽のみのものに書き換えてみようかとか考え始め、でも体調不良のため行けなかったロンドンへほぼこのままの形で送付、1825年3月21日ロンドン初演も理解されなかった。同年4月1日3楽章を省略してフランクフルト初演。5月23日には2楽章を省略し3楽章もカット、4楽章の「おお友よ」の箇所を一部変更してアーヘンの初演。
 弦楽四重奏曲の最後の3曲(第13番、第14番、第16番)を書きながら、大フーガをいじり、「第9」の献呈先をフェルディナント・リースからロシア皇帝アレクサンドル1世にしようとするが既に亡くなり、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に贈ろうとする。
 死の前年の1826年3月2日に1から3楽章のみでライプツィヒ初演。
 完全な形で演奏されなかったこの曲は、聴衆にも演奏者にも理解されなかった。
 同年9月末にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈。11月13日にベルリンで弱冠17才のメンデルスゾーンが音楽家たちの予習のためにピアノ演奏。27日にベルリン初演は完全な形で行われた。
 その後に12月20日にブレーメンで27日にマルデブルクで、翌年ベートーヴェンの死の年の1827年2月20日にはシュテッティン初演、この時にメンデルスゾーンが第1ヴァイオリン奏者として加わっていた。
 そして死の月、3月の9日プラハ初演、15日ウィーン再演となり、26日にベートーヴェンはこの世を去った。

by yurikamome122 | 2015-12-16 09:00 | 今日の1曲

ベートーヴェン「第9への道」番外編、「第9」と双子の幻の「交響曲第10番」

c0021859_13453131.jpg そもそも「第9」はロンドン行きのためのみならず、ベートーベン自身の作曲の特性として並行して2つの交響曲を書き進めるというのもあって、第10番のスケッチらしきものは1822年あたりから見えてきているけども、1822年の暮れにロンドンのフィルハーモニー協会から新しい交響曲の作曲を委嘱される。ニ短調の交響曲とシラーの頌歌「歓喜に寄せて」に基づく「ドイツ交響曲」として並行して作曲された。
 そして作曲を進めながら締め切りに間に合わなくなってこの2曲を合体させて現在の「第9」の形になったというのは金子建志さんがある本で書いている。、
 で、合体する前の構想はというのは井戸端会議のおばちゃん的には大変興味があり、そして他人の寝室をのぞくような下品なことであるというのも承知の上で、ガーディナーの言うところのドキュメントとしての研究成果でもよいからぜひ触れてみたくなるのが人情であって、かくしてイギリスの作曲家でオルガニスト、音楽学者であり、ベートーヴェンの研究者であるところのバリー・クーパー博士が1990年に補筆完成させた。
 いつの間にか手元には3種類の録音があるけれども、これまた不思議なことに全曲完成されているはずなのに揃って第1楽章しか録音していない。
 駅のKIOSKでなぜか文庫本と一緒に1000円で投げ売りされていたウイン・モリス指揮のものを再び聴いてみたが、ほかのウエラー盤や時々芸大フィルに登場するボストック盤よりも立派な響きがするのだけどその演奏は、というか曲もユルい。
 メンデルスゾーンの出来損ないのようなこの音楽からはとても晩年のベートーヴェンの境地からはほど遠いと思うし、話の種に一度は聴いてもいいけれどと言うたぐいのもの

by yurikamome122 | 2015-12-15 07:00 | 今日の1曲

ベートーヴェン「第9への道」最終回 ベートーヴェン作曲、交響曲第9番Op.125を「バイロイトの第9」で

c0021859_23244047.jpg 今まで約半月にわたって10代のベートーヴェンがずっと温め続けてきたこのテーマと、この曲のためにあったような彼の人生をかいつまんでみた。
 そして、この意志の強さというか、若い頃から揺るがなかった彼の理想を晩年やっと具現した、その強靱さとスケールは、個人的にはやはりクレンペラーの晩年の演奏を第一にこのシリーズの終わりに聴いてみたくなるのだけれども、戦後に復帰したフルトヴェングラーの演奏は、やはり同様に大いに興味をかき立てる存在であった。
 改めて聴いてみて、この演奏の前半の3楽章、特に第3楽章は感銘深かった。第4楽章はドラマだと思う。バイロイト祝祭歌劇場の熱気と恐らくは大編成なのだろう合唱団のスケール感とオーケストラの響きと歌手たちの熱演と。
 聴いているとこのドラマティックで祝典的な高揚感は、この姿こそこの曲にはふさわしいのかも知れない。

by yurikamome122 | 2015-12-14 23:25 | 今日の1曲