カテゴリ:今日の1曲( 78 )

ムッシュ・ジョルジュのサン=サーンスの交響曲第3番と、この曲の周辺

c0021859_544713.gif サン=サーンスのオルガン交響曲と言えば、しゃれたセンスの響きに満ちて、大編成の快感を感じることができる曲として人気曲。
 でも結構録音というと厳しいものがあると思う。演奏のショウピースとしては、最晩年のオーマンディーやバレンボイムあたりが個人的には好きだし、フランス風のしゃれた洗練ではムッシュ・ジョルジュのパリ・コンセルバトワールの演奏はやはり捨てがたい。
 響きが交錯して、それが陰影をもち、そのコントラストと色彩の多彩さ。それでいてどこか洒落たセンスが香水のように漂う。当時のコンセルバトワールのオーケストラの味わいと、ムラの激しいムッシュ・ジョルジュが絶好調バトンを裁いているのは、たまたまこの時オケと馬が合っただけなのかどうなのか。
 とにかく素晴らしくセンスを感じる、ドラマ性も、祈りの気高さも、勝利の輝かしさも、これぞサン=サーンスと思わせる演奏を聴かせてくれる。
 
「リンゴの実が実り、自然に落ちるように」作曲したサン=サーンスは、後期ロマン派の時代に差しかかるまで生きたにもかかわらず、大袈裟に何かを語る音楽は作らなかったと私は思っていた。「朝机に坐って、アイディアが脳裡に浮かんできたとき、私は確かに救済を必要としていない。」とクレンペラーに語ったリヒャルト・シュトラウスのように、悩みや救済から一線を画して曲を作ったであろう事を、彼の作品から感じていた。
 サン=サーンス自身の必然性をもって小川が流れるがごとく作曲された彼の音楽は、そこに「悩み」や「苦しみ」を克服する、「救済」による「祝福」も無い、音楽の「形式」で作られた音楽という印象も、時折そう語られることも多い彼の音楽なのだけれども、そこには作曲者の知性が「自然」に、ごく「自然」にそこに存在するような奥行きを感じることがあるのもまた本当のことだと思う。
 この曲はまさにそんな曲だと思うのです。
 
 生まれた年はベートーヴェンの第9の初演から約10年後、極東の辺境の、ラッパと言えばホラ貝だった日本では老中水野忠邦が天保の改革の真っ最中の1835年、フランス革命の混乱さめやらぬ7月革命から5年後のパリに生まれ、マーラーの死の10年後、第1次世界大戦終結の2年後の1921年(サン=サーンスが生まれたとき、江戸時代のチョンマゲでホラ貝を吹いていた我が国が、大日本帝国海軍の東郷平八郎大将が日本海でバルチック艦隊を破り、また戦勝国にもなり世界の列強8カ国入りした大正10年)まで生きた、長く生きすぎた。
 そのおかげで、若い頃は将来を嘱望されつつも、晩年は「時代遅れ」「過去の人」などとうるさい頑固親父のように敬遠されて、しかも頑固に古典的な枠組みを尊重する作風の作曲家と思われたフシもある。(そんなことはない、酷評したドビュッシーの手法を自作に取り入れたりと、晩年でもわりと先進的であった)
 彼の晩年の時代になると、アイヴズはもうあの指揮者を3人も動員し、音楽と言うよりも雑音と見まがうばかりの第2楽章を持つ交響曲第4番は初演されていたし、ダリウス・ミヨーのような違う拍子がいっぺんに進んでゆくような音楽も聴かされる羽目になった。

 近代フランス音楽の「父」として賞賛される彼は神に祝福され誕生した申し子だった。
生後2か月で、国の役人を勤める父を亡くし、母と叔母に育てられた(モーツァルトのファザコン、メンデルスゾーンのシスコンのように、この2人の女性が彼らにも劣らぬ才能のサン=サーンスをマザコンにし、またマザコンの彼の人生で大きな存在となる。)彼は、ピアニストの叔母の手ほどきでわずか2歳でピアノを弾き、3歳ですでに読み書きができ、曲作りを始め、驚いたことに代数の問題を解いた。そしてラテン語・ギリシア語を読みこなしていた7歳の頃にはそのピアノは演奏会を開くほどの腕前となる。
 当然彼を世間は「モーツァルトに匹敵する神童」と呼んだ。広い世界で人類の長い歴史の中、たまにはこういう人もいる。
 サン=サーンスの神に祝福された才能は音楽に限らず、詩人としても大活躍し、小説を書き、天文学、自然科学、考古学、哲学、民俗学など幅広い分野の著書をいくつも発表して才能のすし詰め状態。

 そして長寿故に長く創作も続けて、息を引き取る直前まで練習に余念がなかった演奏への情熱も燃やしていた。長寿で生涯現役、これに匹敵するのはおそらくハイドンくらいだろうと思う。ハイドンはその創作をたどることで、ハイドンの生涯が音楽の発展とヨーロッパの歴史を反映していた。
 でもハイドンのように宮仕えではなく、「評価の対象になる」「売れる」音楽を書かねばならなかったサン=サーンスは自ずとその反映のされ方が違ってくる。フランス2月革命の後2年後の1850年に15歳で「交響曲イ長調」を書いた彼は、その作品の作風は初期は、ベートーヴェンやシューベルトの影響を随分感じる、独墺の古典派の音楽をフランス的輝きを加えた音楽のようにきこえる。
 メチャクチャピアノは巧かったらしく、ベルリオーズやリストなどから絶賛されて、16歳でオルガニストとしてコンクールに優勝する頃にはもうバリバリ演奏旅行をこなしていた。ピアノストとしても評価を受け、作曲家としても様々な作品を飛ばしていた彼は1852年にローマ賞を狙うも失敗。
 作曲の技法もより熟達し、より彼自身が刻印されたピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲をガンガン連打していた頃の1864年にローマ賞に再度挑戦するがこれも失敗。今日評価され残る作品で、彼が2度もローマ賞を逃した、これだけでも彼が言われるほど保守的な作風でもなく、逆に当時のパリの楽壇には新しすぎた証拠ではないだろうか。 
 少年期はピアノの「神童」と称されたものの、頭のよすぎた彼は、アカデミズムどっぷりで、青年期から中年期はそう売れる作曲家でもなく、フランス作曲家の中でも「反動的な」存在として賛否両論的な評判に晒され、しかも、「動物の謝肉祭」などで同業を皮肉ってみたり、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」などと人を見下す、頭のよい人にありがちな性格や言動も災いした。(それはどうだろうか、そういう側面はあったかもしれないけど、国葬が行われたあたり、煙たがれルどころか、大変愛されていたようだ)

 時は流れて1871年、我が国ではとっくに横浜が開港して、廃藩置県が行われていた年、フランスが普仏戦争敗北後、セザール・フランク、ガブリエル・フォーレなどとともに「国民音楽協会」を発足させて、その創立者メンバーとして存在感を示し活躍した。
 1875年に40歳のマザコンの彼は、突如21歳の年の差婚で弟子の妹で19歳のマリ=ロール・トリュフォと結婚した。(この頃の曲に「ロマンス」なんていう、いかにもの曲も作っている)いくらマザコンでももう母親の重すぎる愛に耐えられなかった。
 しかし、その結婚生活も1878年、彼が43歳の年に、相次いで2ヶ月の間に溺愛した2人の息子を事故と病気で亡くすという不幸が襲い、その悲しみを押し隠し、普段と変わらぬ生活を続け、それがまた世間の批判を買う。悪い評判が彼につけば作品は売れない。
 すると彼は若い奥さんを突然放り投げて母親の元に戻ってしまう。彼もまた弱虫だった。その後正式な離婚手続きはとられることはなかったと言うがどうなのだろう。
 サン=サーンスが「レクイエム」を作曲したのもこの頃で、経緯は全くビジネスなのだけど、その頃に「レクイエム」というのはタイムリーすぎる。
 その翌年カンタータ「竪琴とハープ」を作曲、両曲とも例のあの有名な「怒りの日」の旋律が印象的に使われている。なにがしかの感情が込められていたかもしれない。
 そしてそれからしばらくして、母親とともにいた1886年、この曲が書かれたのは、ロンドンのフィルハーモニー協会で演奏するためで、「渾身の1曲」(本人談)である交響曲第3番が書かれた。
 サン=サーンス自身はどちらかというと無宗教のようだったと言うけど、この曲の中に宗教的な響きを感じてしまうのは私が日本人だからか。例の「怒りの日」のテーマも循環形式で手を変え品を変え幾度も幾度も出てくる。
 この曲のように交響曲でハ短調で始まる曲は、有名どころでもベートーヴェンの「運命」やブラームスの1番とか、ブルックナーの8番、マーラーの2番なんて結構あるんだけど、やはりこれらのように運命に打ち勝つシナリオがこの曲に込められているのではないか。

例えばこんな筋書き、

 第1楽章の第1部、初めから凄い緊張感を感じる響き、幾度も現れる「怒りの日」が惨い運命を思わせて、大胆な転調でそれと戦う。この厳しさに打ち勝とうとする強烈な意志を感じる。
 第1楽章の第2部に入り、オルガンの鳴り響く中、豊かな弦のユニゾンは教会を連想する。トロンボーン、クラリネット、ホルンの響きは戦う戦士の祈り。
 やがて聞こえる低弦のピチカートによる「怒りの日」が聞こえ、2楽章からの戦いの予感をさせながら清澄な祈りが続く。

 第2楽章の第1部は運命の「怒りの日」の断片が怒濤のように攻め込み降り注ぐ。途中で響くコラールは雲間から降り注ぐ光とともに天使が舞い降り祝福をする。
 そして、第2部に入り神の意志を感じるようなオルガンの響き、荘厳な神殿の階段を一歩づつ踏みしめて上るような上昇音階の先にきこえる「怒りの日」が長調に転調して天使が舞うようなピアノ連弾のあそこ。
 そして壮大なオルガンを伴った華麗な響きのあと「怒りの日」を変形した旋律のフーガは喜びに満ちて、展開されて盛り上がり、カッコイイテーマが朗々と鳴り響き華やかな頂点が築かれたあと、再び「怒りの日」が登場するも崩れ落ち、そして輝かしく壮大に、華々しく勝利の上昇音型を轟かせ、運命に果敢に立ち向かいそして克服し、最後、華々しく重厚なハ長調の和音がオルガンとともに響くのでした。

by yurikamome122 | 2015-06-15 05:44 | 今日の1曲 | Comments(0)

ハーゲン作曲、「Shining Brow」。フランク・ロイド・ライトの誕生日に、

c0021859_1030178.gif「あなたが本当にそうだと信じることは、
 常に起こります。
 そして、信念がそれを起こさせるのです。」

 フランク・ロイド・ライト


 そんなことを言う人が傍にいるというのは、人生刺激的で楽しくなる。

 昨日、6月8日は、極東の島国の我が国の建築に大きな足跡を残し、未だにその影響が強く残っているフランク・ロイド・ライトの誕生日。

 日本人の建築家に大きな影響を与えたと言えば、近代建築の五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を提唱しモダニズムの旗手だったル・コルビジェあたり、ちなみに、コルビジェがこの五原則を具現化した「サヴォア邸」からもう80年以上経っているにもかかわらず、未だに建築はその枠の中から発展をしていないのです。
 ところで、神奈川県立音楽堂や東京文化会館でおなじみの前川国男はコルビジェの弟子になるのだけど、そんな洗練された都会的なコルビジェに対し、もう一人日本の建築界に大きな足跡を残したのは、力強く田舎風のプレーリー・スタイルを確立したフランク・ロイド・ライト。
 そのライトに関して、個人的にはそう関心があるわけでもないけども、いやが上にも多少なりとも知識があるのは、学生時代に卒業のため単位を修得しなければならないという全く不幸な理由により、西洋建築史の講義をしてくれた先生が、今日ご健在で、日本建築学会の名誉会員になられた谷川正巳というライト研究の大家だったせいなのです。
 その谷川先生の著作の中で、入学時に出版されて2年目だった「タリアセンへの道」と言うのがあって、学校の生協でいっぱい並んで売っていた。
 この本の内容はライトの伝記ではなくライト建築の見学記なのだけど、これはなかなか楽しめる本だった、と言うことは置いといて、リスト、ワーグナーばりのロマンチストであったろうライトが、独立後、不倫、駆け落ちの末「タリアセン」になんとか落ち着き、スキャンダルで地に落ちたライトが、そこで再起を図った。
 そのタリアセンでライトの不在の時に使用人が、不倫の末結ばれた婦人と子供たち、そして弟子まで惨殺し、そして放火した。
 そして史実では、失意のライトに仕事を依頼したのが我が国で、来日し、帝国ホテルの建設に携わる。今の明治村に残っているファサードのそれで今も息吹を感じることができる。
 その帝国ホテルも、今の新国立競技場同様、経済的理由から様々な経緯をたどるのだけど、ライトの存在感は我が国に大きな足跡を残し、世界の建築界で、ほとんどがマーラーの夫人だったアルマの不倫相手だったワルター・グロピウスの主宰したバウハウスの存在が大きい中、我が国だけは、辺境の地のせいかこのライトとコルビジェの影響の方が大きい。

 そんなライトの独立からタリアセン、そしてそこでの悲劇と再起への誓いまでを描いたのがアメリカの作曲家のダロン・エィリック・ハーゲンの「Shining Brow」という作品。
 ミュージカルのように聴きやすい音楽に満ちているのに、全編英語でいたわれていて、対訳もなしというのは英語が堪能ではない自分としては残念な限り。
 とはいえ、何事も経験、聴き通すことにしよう。

ジョアン・ファレッタ指揮、バッファロー・フィルほかで。

http://ml.naxos.jp/work/263817

by yurikamome122 | 2015-06-09 10:34 | 今日の1曲 | Comments(0)

メンゲルベルク指揮でドヴォルザーク作曲、交響曲第9番「新世界」

c0021859_162265.jpg 今更「新世界」というのもどうかと思いながら、とはいえやはり「新世界」。この「新世界」と言えばもう有名どころの、どこに入っても美味しそうな横浜中華街名店鮨詰め状態の、そしてどの店にも必ずあるチャーハン的な存在の曲であるのだけど、その中でも味わいがひときわ濃いのは、録音されてから65年間輝き続けているのは、メンゲルベルク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏。
 この曲が作られてから約50年後の録音と言うことになる。
 どうもキワモノ扱いが残念な気がするメンゲルベルクの中でも、メンゲルベルクの演奏様式がキワモノだと仮定すると、思いっきりキワモノなんだけど、例えば、あの有名な2楽章のイングリッシュホルンのソロなんて酔っ払っちゃいそうな、まるで大物演歌歌手がアンコールで十八番を歌っているようなフレーズが伸びたり揺れたりする歌い回しは、もう確かに名人芸で、それでいてイヤミに感じないあたり、いや、キワモノどころか大変美しいわけで、もうため息をついて惚れ惚れ身を委ねるしかないわけで、例によってアメのように伸びるレガートや水飴のようなポルタメントも自由勝手気ままかと思いきや、そこはやはり巨匠の仕事。
 第4楽章では、ポルタメントをガンガン聴かせて気持ちの良さそうに歌いまくる弦楽器の美しさって言ったら。
 1楽章のピアニシモからテンポを上げながらヒタヒタと畳みかけるあたり、ヴィヴラートを完璧にコントロールされたフレーズに思わず心を奪われながら手に汗を握ってしまう。
 それにしても、コンセルトヘボウ管弦楽団の巧いことといったら、さすが。
 聴き慣れない節や響きを時折感じるのは録音が悪いせいかどうかわからないけど、それでもコンセルトヘボウ大ホールの豊かな響きを鳴らしに鳴らして、それまで計算ずくの演奏であることは聴いていれば明らか。ホールの広さを感じる録音なので、1940年という録音年としては決して悪い録音ではないと思う。
 聴いていて音楽が、この曲が愛おしくて仕方がなくなるような、そんな演奏でありました。

by yurikamome122 | 2015-06-05 16:24 | 今日の1曲 | Comments(0)

カラヤン指揮の76年のベルリン・フィルとのブルックナーの交響曲第8番

c0021859_1842827.jpg ブルックナーを愛する偉大なディレッタントである宇野功芳さんにケチョンケチョン、ミソクソに貶されて、たぶん我が国では不当に評価が低い演奏なのではないかと思う。
 1976年のカラヤンが壮年期のベルリン・フィルとのベルリンのフィルハーモニー・ザールの録音。
 でも、改めて聴くとカラヤンの表現が、「カラヤン臭い」以外は大変に端正で、かつ真摯な演奏であるように思う。そして、その「カラヤン臭さ」も成功しているように思うのは、この曲の拡がりと深みを、そのスケールを身体中が吸い込まれそうな深遠さの奥から大宇宙のど真ん中に放り出されたような神秘的で孤独な寂寥感と美しさを感じるからなのです。
 というわけで、宇野功芳さんも実はこの演奏を内心感心していて、宇野さんもある雑誌で

 「これはどこまでも神秘的で深淵で深沈たるブルックナーだ。ここでカラヤンは、感情を磨き上げられた透明で高貴な哀しみに昇華させている。
 しかも壮麗な部分でも表現がまさに吹き上げるようなエネルギーに満ちているのだ。
 特にすばらしいのは天にも昇るような甘美で悪魔的とも言えるレガートで、これはまさに息をのむばかり、そこに込められたのは哀切さの極みだ。
 これは帝王カラヤンによってブルックナーの桁外れな魂を極限まで磨き上げたものとして後世に残すべき名演といえよう。」


 なんてことは書いていません。
 悪しからず。

 だけどさ、こんな演奏をこのオーケストラでしていた頃を知っているお客さんがまだいるんだろうから、後継者選びには今の時代、苦労するのは仕方がないのかもしれないよね。
 言っちゃ悪いけど、演奏スタイルは別にして、音からこれだけの何か迫るものを聴かせる人、今生きてる人にこのレベルを要求するのは無理でしょ、正直言って。
 わたしゃ聴いたけどね、数年前まで神奈川フィルで。あの頃の演奏は間違えなくこのレベルだったと確信しておるのです。

by yurikamome122 | 2015-05-30 18:44 | 今日の1曲 | Comments(0)

ちょっと崩れた美について、ラヴェルとドビュッシーの違いなど。ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら

c0021859_1345187.jpg ラヴェルという作曲家は、とても古典的だと思ってた、フォルムがカチッとしていて。
 聴いてみてそう感じていたのだけど、確かにそういうところもあるのだとやっぱり思うのだけど、それでいてなんでラヴェルの音楽がこんなに美しいのか、なんでこんなに緊張を強いるのか、ここのところ故あってラヴェルとドビュッシーとサン=サーンスとフォーレばっかり聴いていたんだけど、シューマンやワーグナー、リストなんかをちょっと聴いてみたらなんだかわかるような気がしてきた。
 ラヴェルって禁欲的なんだよね、きっと。そしてその禁欲に宿る人間的、動物的感性と本能とのせめぎ合いの緊張感。
 リストの「巡礼の年」3年の中の「エステ荘の噴水」にインスパイアされてラヴェルが「水の戯れ」を書き、ドビュッシーは「映像」第1集の「水に映る影」を書いた。この2曲の違い、水面の動き、その揺らめきに映る影のドビュッシー、ラヴェルは水面が見えないくらい透明な「水の戯れ」。この整ったような透明感。
 繰り返し延々と同じメロディーを執拗に繰り返すリズムとともに徐々にクレッシェンドで聴き手を陶酔の坩堝からエクスタシーの境地で解放するあの「ボレロ」なんて、セックスそのものじゃないか?。だいたいあの変態的なピッコロとホルンの二重奏はナンなんだと。だけど響きはあくまで透明で美しい。
 それをたとえばワーグナーのようにムワッとした臭いのする場末の映画館で外国製のポルノ映画を見たような曇った下品な、またドビュッシーのようにそのものズバリではなく、ラヴェルはこういう動物的な逞しい情熱的なものは美しいとは感じなかった、きっと。
 なので、ラヴェルは古典的と言うよりも、人間くさい性愛、愛欲をむき出しにしたようなロマン派の音楽のようなものよりも形式を持った古典的なものに美しさを感じた。そしてそこに性愛、愛欲をこういう形で抽象化し昇華する、それがこの人の音楽の世界なんではないのか?。
 ワーグナーはその下品さを壮大な、ヒロイックなイメージで湧き起こる聴き手のイマジネーションにより聴き手が形而上的に受け取る事を要求しているのかもしれないけど、ラヴェルは違う、もう既に昇華し洗練された結晶がそこにあって、即ち透明に「崩れた」美をそこに現している。そう私は感じる。でもだから、聴いていて疲れる。それに引き替えドビュッシーのあの官能的な安らぎ。
 そういえば、私が個人的に西洋の庭園よりも日本の庭園に親近感とより深い美しさを感じたりするのは、西洋式の庭園の明らかに一点から見ることを意識して調和を求めたものではない、枯れ葉1枚もゴミではなく、その崩れたものさえも美しく見せる、そういうところなのかもしれない。でも、日本庭園、枯山水は見ていて疲れる。
 ラヴェルの自宅の部屋には浮世絵が飾ってあって、和風の部屋もあったそうな。
 やっぱり和風の趣味があったチェリビダッケのとってもエッチなボレロを聴きながら。

by yurikamome122 | 2015-05-22 14:25 | 今日の1曲 | Comments(0)

レスピーギ作曲、交響詩「ローマの松」をトスカニーニの演奏で

c0021859_17254581.jpg 反ファシズムの象徴としてのトスカニーニは熱烈なムッソリーニ支持者のレスピーギの「ローマ三部作」を一番この曲らしく演奏する一人で、そしてその中でもひょっとしたら最も成功しているのではないかと思ったりする。主義主張の違う思想の支持者が実際にはそんなに関係が悪くなかったというのもなんだか不思議な気がする。
 「新即物主義」と言われ、楽譜の改編など朝飯前(でもなかったようだけど)のロマン主義的な演奏が主流のあの時代、楽譜に忠実をモットーとし(これも実際には言うほどそうでもなかった。口汚く罵ったマーラー改変のスコアで演奏をしたりした)音楽の演奏の改革をしたトスカニーニは、あの時代に現代のピリオド演奏のような衝撃を与えた。
 演奏は前のめりのテンポで輝かしい響きのオーケストラが聴き手の興奮と陶酔の坩堝に巻き込む。
 この演奏でも卓越した表現力のオーケストラを輝かしい音色で歌いに歌わせ、鳴らしに鳴らし、絶妙かつ繊細なデリカシーと圧倒的な音量で、聴き手は、もうその音楽が映し出す情景にただのみ込まれるだけ。そのすさまじさはやはり「指揮者の中の王」(オットー・クレンペラー)であると思う。

 松と言えば松ぼっくり。そして松ぼっくり(pina=ピーニャ、女性名詞)は「繁栄」の象徴。レスピーギは「松」を通してローマの記憶と幻想を呼び起こそうとしたと述べている。
 この「ローマの松」はローマの繁栄の象徴の曲。
 初めに、高音楽器だけできらびやかに始まる音楽は、松のそびえる庭園で遊ぶ子供たち。この部分はイタリアの子供たちの童謡のメロディーからとった。自筆符を見ると6曲書いてあって、そのうち私が判読可能だったのは「ジロジロトンド」と「マダマドレ」の2曲だけだった。ネイティヴならきっと読めたのかもしれないけど私には無理。
その2曲はこちら。

「ローマの松」の冒頭に出てくるやつ
曲名は"Madamadorè"「マダマドレ」


曲名"Giro giro tondo"「ジロジロトンド」


 賑やかな子供の歓声から一転、低音楽器がキリスト教公認前のローマへと誘う。レスピーギは古代の教会旋法とハーモニーを用いて様々な記憶と怨念が渦巻いているであろう洞窟の墓場「カタコンベ」。
 このあたり、「イタリア音楽復古主義」の旗手としての面目躍如。

 次の部分では「人」は登場せずに情景のみの音楽。
 聞こえてくる鳥のさえずり(ここでは「噴水」のように楽器で奏でるのではなく、実際の鳥の声を聴かせる。征爾さんとボストン交響楽団のレコードのライナーには、Gramophone No.R6105と指定していると書いてある。)の中、満月に浮かぶ松。レスピーギは「鳥」が大好きだった。
 この鳴き声は美しい鳴き声の「夜鳴き鶯」といわれる「ナイチンゲール」。満天の星空の下、心地よい風が渡る丘の上から、そのナイチンゲールのさえずりの響き渡るなかローマを一望する。

 そして暗い雰囲気から4拍子のリズムが弱音から徐々にクレッシェンドする執拗な上昇音型がいやが上にもアドレナリンの分泌を促し、ドルビー効果の映画館よろしく客席後方の金管別働隊が360度の臨場感を満たし、輝かしく雰囲気が変わりオルガンの重低音が心臓を揺さぶり、サラウンドの音の洪水で会場中が湧き上がる栄光に満ちた凱旋軍の行進が描写される。
 ここでは豪華絢爛、オーケストラの色彩感と輝きの極致、音のビリビリ感電ショウが展開されているというわけ。

 レスピーギが生まれたのは1879年、もうこの時代、蝋管式ではあるけども蓄音機もとっくに発明されて、我が国でも蓄音機の演奏が行われた。
 イタリアではイタリア王国による統一がナンとか成し遂げられて、そしてやっとのことでローマ教皇領だったローマを1870年に併合し、同時にイタリアの首都をフィレンツェからローマに遷都した、その9年後だった。「全ての道はローマに通ず」ヨーロッパの中心地としての栄光の歴史を持つローマを我が物としたイタリアの国民がイタリア人としてのプライドをやっと満足させるに足る領土を取り戻した。
 とはいえ、これが切っ掛けでローマ教皇との対立も生まれ、またエチオピアやリビアに侵攻し、やがて第1次世界大戦に巻き込まれ、なんとか戦勝国にはなったものの大変な出費と疲弊がそこには残された。こうなるとどこの国も右翼の台頭が起こるわけで、「古代ローマ帝国の復活」を目指すムッソリーニの登場。
 一方音楽においてもバロック以前から芸術でヨーロッパをリードし様々な輝かしい歴史を持つ音楽大国のはずが、18世紀後半以降はオペラ以外ドイツ・フランス等に新しい音楽への貢献ではねだった業績がなかったイタリアがこの頃あたりからピッツェッティ(1880~1968)、マリピエロ(1882~1973)、カセルラ(1883~1947)などが近代イタリア復古主義を興し、イタリア音楽が全盛期を誇ったバロック以前の音楽を模範とする音楽復興を始めた。このイタリア音楽復古主義と呼ばれる運動の最大の成功者がボローニャに生まれたレスピーギであった。
 イタリア復興という意味ではレスピーギはムッソリーニと大いに意気投合することとなるわけで、幾つかあるレスピーギのそれらの作品の中で、演奏効果という意味ではオーケストレーションの大家、R・コルサコフ譲りのオーケストレーション技術を駆使し、オケを鳴らしにならすこの「ローマの噴水」、「ローマの祭り」、「ローマの松」の3作品が一番成功しているのではないのか。

 古代ローマ時代から治水に関しては先進的であったローマは生活用水供給や街の景観から多くの噴水があった。
「ローマの噴水」はローマに移り住んだレスピーギがローマにインスパイアされて書いた作品。ローマの栄光の時代の噴水の描写作品。ローマの1日をその時刻にあわせて彼の選んだ噴水の情景の描写。
 但し初演(1917年3月11日)は失敗。第1次世界大戦まっただ中での初演が影響していたかどうか、戦時中に相応しい雰囲気の曲だかどうかはわからない。この頃はもうニキッシュがと言う指揮者がベルリン・フィルでベートーヴェンの「運命」などを録音していて、その録音は今日私たちでも1000円以下で手に入る。
 失敗にふてくされて落ち込んだレスピーギは楽譜をしまい込んでしまったがたが、名指揮者のトスカニーニが初演のそう遠くない後に、演奏会用に「何か新しい曲はないか」とレスピーギにせっついたので急な問い合わせに手持ちのなかったレスピーギが渋々楽譜を渡すとそれが大成功(1918年2月11日)したという作品であるのはどこかで話が出るでしょう。足かけ5年にわたる大戦終結の9ヶ月前の話。
 その成功に気をよくして次作を書いたのが「ローマの松」。「噴水」から7年後のこと。初演はその直後の1924年12月14日。ムッソリーニはファシスタ党を率いてイタリア王国の首相になっていた。
 一方レスピーギも作曲技法、管弦楽法に更に磨きを掛けて、「噴水」よりもオーケストラは大編成になり、パイプオルガンや特殊な楽器も動員し、レコード録音された鳥の声(この頃はレコードと言っても電気録音はまだされておらず、実際の再生もかなり雑音混じりの苦しいものだったと思われる。電気録音が実用化されたのはこの翌年の1925年から)や演奏会場でのサラウンド効果も狙って客席後方からステージ上とは別動隊の管楽器軍を配置している。更に演奏効果の高い曲を作ったわけだ。
 そして最後に書いたのが「ローマの祭り」。初演は1929年2月21日でこの曲はアメリカで初演された。しかも徹底的にムッソリーニを批判していたトスカニーニの指揮で。
 この頃のイタリアはムッソリーニの独裁体制が確立されていて、「古代ローマ帝国の復活」への野望が着々と進もうとしていたところで、ここでレスピーギが発表したのは古代ローマの皇帝ネロのキリスト教迫害の時代の残虐な祭りから、グッと月日は経ち1300年、キリスト教の中心地となったローマ特赦を得るために巡礼した者たち、それを迎える鐘の音。そしてローマ教皇の別荘地での葡萄の収穫祭の様子。最後はレスピーギが生きた時代の主顕祭の乱痴気騒ぎの様子。古代からレスピーギの時代までのローマの祭りを年代順に辿り輝かしい誇るべきローマの歴史を聴くという仕掛け。
 編成は「松」よりも更に大きく、特殊楽器も交えての音の大乱舞が楽しめる。
 この三部作は、レスピーギのローマ賛歌と断固たる誇り、そして音楽面でのイタリアの復権を望むその現れでもあるのだけど、イタリアはその後に第2次世界大戦で敗戦国となりムッソリーニの野望はくじかれたのはご承知の通り。
 ムッソリーニを支持したレスピーギは第2次世界大戦勃発前の1936年にこの世を去る。
 レスピーギの望んだイタリア音楽の復権に関しては、もう時代は彼の進んでいた方向ではなく、混沌の時代へと進んでいったわけです。

by yurikamome122 | 2015-05-19 17:26 | 今日の1曲 | Comments(0)

5年前に聴いたシベリウスのヴァイオリン協奏曲を思い出して

c0021859_23175098.jpg シベリウスのヴァイオリン協奏曲が、今日は無性に聴きたくなって、5年前に県立音楽堂で聴いたコンサートを思い出してみたかった。
 もう遠い記憶だけど、妖精のような女の子の演奏するこの曲はデリケートで北欧の童話のようなメルヘンのような演奏だったんじゃなかったか。
 この子があのとき何歳だったか忘れてしまったのは申し訳ないけど、でも高校生くらいだった気がする。
 柔らかな暖かいオーケストラに包まれて、勇ましくも果敢に曲に挑む彼女の姿は、それだけでとても感動的だったし、それを包むオーケストラもよかった。
 1楽章の長いカデンツァや2楽章の清らかだった響きが今でも印象に残っているし、3楽章の躍動も私がこの曲に持っている印象とは違う早春の嵐だった。カッコよかった。
 あの子が、素晴らしい結果を出したんだって!!。なんだか話を聞いただけでジンと来るな。
 残念ながらあの演奏とは全然違う、でもこれも名演だと思う潮田さんと征爾さんの演奏を聴きながら、もう一度あんな演奏聴きたい。
 いや、近いうちに聴けるのかな。

by yurikamome122 | 2015-05-18 14:42 | 今日の1曲 | Comments(0)

ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でシューマン作曲、交響曲第3番「ライン」

c0021859_714799.jpg  春爛漫、やはりシューマンは相応しく、ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団で第3交響曲「ライン」を聴いてみると、アムステルダムのコンセルトヘボウ大ホールの豊かな響きが、高原に吹く風のようでもあり、春の花曇りのような響きのオーケストラも結構豪快に鳴っていて、春の日差しの優しさを感じるように明るく、若葉が萌える深々とした森の中のように爽快すぎずロマン的で、自分のイメージしているこの曲そのものであるのです。

 シューマンのこの交響曲が、精神を患っていたがデユッセルドルフに赴任してかの地の明るい雰囲気の中、シューマンの気分も良く(そんなことはないはずだ、この時期の日記にも家計簿にも体調のかなり悪い記述がけっこうある)書かれたとか、3拍子の第1楽章がどうも「ずん・ちゃっ・ちゃ」にならずに2拍子にきこえ、リズム的にどうも居心地が悪い(これこそまさに様々に変化するライン川の水面の波のようではないか)とか、シューマンは管弦楽法がどうも苦手のようで、響きに色彩感がない(これは管弦楽法がヘタなのではなく、シューマンが意図的にそうした感じがなくもない、だんだん管弦楽法が熟達してきたはずの後年の作品の方が管楽器を塗りつぶす傾向があるように私にはきこえる。第4交響曲の改訂などはもう一聴瞭然、明らかに改定する前の方がスッキリしている。ガーディナーによれば、このシューマンの響きの重さは近代の大きすぎるオーケストラ編成のための響きのアンバランスが原因だそうだ。百歩譲って、もし響かないオーケストレーションだとしても、この演奏を聴けば感じるだろうゲルマンの魂である森の中の木霊そのものではないか。いずれにしても私にはシューマンがああいった響きをオーケストラからだそうとしていたのだと思う。)、そこでマーラーやワインガルトナーなどが楽譜に手を入れて、もっと聴き映えのする響きに変えて演奏していたなど、それらは恐らくは、そこいら中で語られていて、ゴールデンウィークまっただ中、春の心なしかハイな気分にはそんなよく聞かれる話に思いを馳せてもつまらないので、この作品が、この曲を作ったシューマンがのみ込まれていたロマン主義を時代背景とともにちょっと調べてみた。

 前期ロマン派と言っていいのかどうかわからないけど、結構メンデルスゾーンなどとひとくくりにされやすいシューマンはこの曲を書いたのが自由貿易の開放的な雰囲気に満ちていたかどうかは知らないけど、ハンザ同盟都市のデュッセルドルフの音楽監督に招かれた1850年、フランス革命から61年が過ぎている。
 7年来患っていた精神疾患が悪化し医者のすすめでドレスデンに移り住み、もう既に「タンホイザー」を発表済みだったドレスデンの宮廷楽長ワーグナーとも親交を結ぶも、ワーグナーが2月革命(バスティーユ襲撃からもう60年以上過ぎても、その余波はまだ収まっていないのでした)に参加しスイスへ亡命してしまい、シューマンの身辺が不安になったその後のことになる。
 シューマンをブラームスが訪ねる3年前で我が国ではペリー提督の黒船来航の3年前のこと。その頃のヨーロッパの文化はとロマン主義の恵みに溢れていたて、シューマンがこの曲を作ろうとしていたその頃は、後期ロマン派はもう彼の真後ろに並んでいたのでありました。
 ロマン主義は18世紀半ばに興った産業革命とフランス革命という変化に端を発すると言われている。
 産業革命による技術の発展でプロメテウスの火のように合理主義の追求で神をも恐れぬ大きな夢を見た人々は更に徹底的に合理性を追求し、さらなる夢を追いかけ鉄道や蒸気船などが生まれ人々の生活は激変の一途を辿る。しかしながら、その産業革命は農村の手工業に大打撃を与え、大都市に労働者として流入していき貧民街を構成するようになった。 科学の進歩や技術の発展は決して純粋に良いものとは考えられなくなっていった。
 政治的にも「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命の生んだ恐怖政治や、ナポレオンという独裁者の出現と言う矛盾(今のアラブ・中東情勢そのものではないか。彼らが平和と成熟をものにするには彼らの中で大きな戦いを経つつあと100年はかかるかも知れない。だけどその間にロマン主義のような稔りもあるかも知れない)がヨーロッパにロマン主義を起こす引き金となった。
 ロマン主義は冷徹な理性よりも、人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表現しようとする動きのこと。音楽においては、合理的仕組みを確立したのはバッハやハイドンで、古典派によって合理的、理性的、客観的音楽が確立された。その後にフランス革命などに触発されて、あるいは教会や王侯貴族から解放されて感情的、主観的、幻想的音楽、ロマン派の音楽の登場となり、音楽家が職人ではなく芸術家へと移行することにもなったというわけで。
 そしてそれが、ローマ帝国やその後以降の覇権争いも含んだヨーロッパ統一への動きから、民族・言語・領土の神話へのローカルな情熱へとベクトルが向かう。古典主義からロマン主義へ、即ちそれまでの古代ローマや古代ギリシャではなく、中世こそに彼ら独自のルーツがあるのだと言う思想への傾き、現代まで続くヨーロッパ分断の始まりになるのだけど、その結果音楽もローカライズされたものが徐々に増えてゆく。たとえば楽譜の楽想の表記も、シューマンは第2交響曲まで使っていたallegroやandanteにようなイタリア語表記をこの曲の前あたりからドイツ語表記に変えた。
 そして、その後は、「標題音楽」と「絶対音楽」という大変ロマン的な論争が起こり、シューマンと親交が深かった絶対音楽派のブラームスはシューマンの後押しで世に出る。そして、絶対音楽派の旗手となる。表題音楽派の旗手ワーグナーの「タンホイザー」をシューマンは盟友のメンデルスゾーンに酷評した。(ワーグナーもシューマンの音楽にはメロディーがないと酷評していた、メロディーがないって?、ブラームスを擁護していたウィーンの評論家ハンスリックがブラームスにちらりと言っていたおねだり「もう少し、もう少しだけメロディーを」と同じじゃないか)
 シューマンは、今回の曲のような交響曲を作りながら、どちらかというと彼自身絶対音楽派だと思っていたのかも知れない。
 ちなみに蛇足だけど、シューマンはワーグナーの「タンホイザー」の上演を後に接して評価に転じたとか。そしてワーグナーもシューマンに「あなたのピアノ五重奏曲はとても好きです」なんて書いて送っている。
 二人が会ったのはこの曲を書き上げる1年前、1849年シューマン39歳の時にワーグナーがドレスデンでベートーヴェンの「第九」を指揮した時に会ったのが最後だったそうだ。
 ブルックナー25歳、ブラームス16歳、マーラーの生まれる11年前の話。
その後に彼らがロマンを追い求めているうちに、植民地政策の失敗や民族紛争などにより国家間の格差はどんどん広がり第1次世界大戦の火薬の臭いがもうあたりにそこはかとなく立ちこめる頃になる。

by yurikamome122 | 2015-04-30 16:18 | 今日の1曲 | Comments(2)

ハイドン作曲、交響曲第45番「告別」をヘルマン・シェルヘン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団で

c0021859_16562096.jpg ハイドンの「ロンドン・セット」の初の全曲録音となったのはこのシェルヘンで、その後に全曲録音を目論んだかどうかはよく知らないけども、このように「シュトゥルム・ウント・ドランク期」の録音も残してくれた。オーソドックスな中、ウィーンの香りのするなかなかの演奏だと思うのです。
 ハイドンのこの交響曲に関しては、勝手にバカンスを延長した主人に対し、おつき楽団の連中が帰宅が遅れることに落胆したので、その気持ちを忖度してハイドンが作ったというのはよく知られた話で、多くのところで語られていて、コンサートのパフォーマンス的にも演奏効果と言うよりも、これは多くの場合聴き手側の問題かも知れないけど、たとえばバレンボイムあたりがニュー・イヤー・コンサートで取り上げたりしているように演奏者、主催者側が「ネタ」として重宝する曲目の1つのような取り上げられ方をしている曲ではある。
 シェルヘンはこの曲の演奏で、最後楽員がひとりずついなくなる場面で、彼らに「Auf Wiedersehen」と言わせている。
 気になって人数を数えたら全部で16人。最後の2人は指揮者とコンサートマスターのはずなので、楽員は14人と言うことになる。管楽器がオーボエとホルンが2名ずつ、そして後はファゴット1名なので合計5名、ということは弦楽器は9名という計算。現代のコンサートの編成のように第1ヴァイオリンだけで10名以上いるような編成だとすると、どこかのタイミングで弦楽器がゴッゾリ居なくなるという事態になるので、ハイドンほどの洒落た人がそんな無粋かつヘンテコな演出を容認するわけがないので、とするとコントラバス1名にチェロが2名。そしてヴィオラも2名でヴァイオリンが第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンとも2名で計9名と言ったあたりがこの曲の初演時の編成と言うことになるのかと思う。
 ハイドンがこの曲を作曲したのはハイドンが「シュトゥルム・ウント・ドランク期」まっただ中の曲と言うことになるわけで、1楽章の切羽詰まったテンポの速い短調はピリオド系演奏可能での見せ所と思っているかどうかは知らないけど、それこそ疾風怒濤の如くの演奏を皆しているのだけど、モダン楽器の方は、響きが豊かになるせいか、疾風怒濤と言うよりも運命の嵐的な雰囲気になっているあたり、モダン楽器にではちょっと分が悪いかも知れない。
 ところで、この「シュトゥルム・ウント・ドランク」、「疾風怒濤」なのだけど、エステルハージ家に就職して楽長になりその心境を表したものであるとか無いとか。
 でも、この頃の作曲家は皆職人で、そんなロマンティックなことはあり得たのかどうか。

 ハイドンは、ハンガリー王国領との国境にあるニーダーエスターライヒ州ローラウ村に誕生したのはフランス革命の約50年前、アメリカではイギリス帝国13植民地が成立した1732年の3月31日であった。日本では江戸幕府8代将軍徳川吉宗の時代。
 同業の同年代ではバッハの子供達もそうなる。そしてハイドンの初めの頃の作品はバロック的な印象が感じる気がするのも事実。ところが後期にさしかかり、「パリ・セット」の頃あたりからロマン派の香りがしてくるのは別のところで記した通り。
 はさておき、ハイドンの家庭はと言うと、ハープと歌が好きな車職人の父と宮廷料理人の母親。ヨーゼフ・ハイドンがまじめで職人気質で器用なのは両親譲りなのかも知れない。
 音楽好きの父親の影響を受け、幼い頃から音楽では才能が認められて、歌がうまかったのはヨーゼフとこの下の弟ミヒャエル。どちらも音楽史に名を残すわけど、このヨーゼフはと言うと6歳の時に父のハープの演奏に合わせて歌うハイドンの歌声に惚れ込んだ親戚のマティアス・フランクと言う人がヨーゼフの両親を説得し、ヨーゼフを自分の家に住ませ、音楽に対する英才教育を施し、いろいろな楽器と音楽に関する知識と教養を身につけさせた。

 美声の持ち主だったヨーゼフは、オーストリア継承戦争が勃発した1740年、8歳の時にウィーンの聖シュテファン大聖堂聖歌隊監督ゲオルク・フォン・ロイターが派遣した聖歌隊員発掘隊が偶然聴いた若きヨーゼフをスカウトし、ヨーゼフはウィーンでシュテファン大聖堂聖歌隊員として大聖堂はじめ他の教会のミサでの奉仕、皇帝や貴族の宮廷で催される音楽会や宮廷行事にも出演しつつ、カトリック教理、ラテン語、一般学校の教科が教えられた。これに加えて音楽教育が加わる。それは歌唱をはじめオルガン、チエンバロ、ヴァイオリンの演奏を学べ、ウィーンの他の学校で演じられたラテン語劇に歌手として出演など、声変わりになって解雇されるまで音楽的に大いに実りある9年間在籍することになる(1740-49年)。
 このとき、シェーブルン宮殿で歌った時、ハイドンが建築の足場に登って騒いだという逸話があって、オーストリア継承戦争でさぞ頭を悩ましていたであろうマリア・テレジアに直々に厳しく怒られたという話がある。
 つまり、権力者に物怖じすることなく、「告別」や「うかつ者」「驚愕」などで貴族達に謎かけや悪戯を仕掛けるやんちゃな悪戯好きは根っからの性分だったようだ。
 折しも華やかなウィーンの巷ではヘンデルやヴィヴァルディの音楽ももて囃されていた時期であった。
 1745年の秋、ヨーゼフよりもおそらく歌がうまかった弟のミヒャエル・ハイドンもこの聖歌隊に参入。そしてまもなく兄ヨ-ゼフは変声期を迎えたため、ヨーゼフが得ていた聖歌隊のソリストの地位をミヒャエルに奪われる。
 世間知らずのヨーゼフをカストラートにしようという陰謀にのせられて、その気になりつつあったところをすんでの所で父親の乱入で救われた彼は、変声期もあったけど、ヘンテコな濡れ衣を着せられて、聖歌隊を17歳の歳、1749年に混乱でまだ定職を見つけられないまま残念ながら11月の冷たい雨の降る夜に聖歌隊から追い出されて解雇される。
 捨てる神あれば拾う神あり、街でばったり会ったミヒャエル教会の聖歌隊員ヨハン・ミヒャエル・シュパングラーに泣きつき、幼い子供がいる賑やかな家庭に転がり込んだ。そして、音楽家の卵のアルバイトと言えば今も昔も同じ、ダンス音楽や劇の伴奏などをして生活費を稼ぎつつ、これもヨーゼフにとりよい経験だった。
 やがてそんなヨーゼフに目を付け出資するスポンサーが現れる。やっとシュパングラーの家から独立することになった。
 そして次はウィーンの様々な職人達が一つ屋根の下で暮らすミヒャエラーハウスの6階に居を構える。まるで戦後の漫画家の集まった「トキワ荘」のようなここでは、青春まっただ中の若者らしく同居の友人達と青臭い夢を見ながら、様々な作品を発表しつつ、そして上に下に、右に左に幅広く人脈も拡げていった。
 ヨーゼフ27歳の1759年頃、ボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長の職に就いた。定職である。初めての宮仕えで戸惑いながらも精一杯勤める中、モルツィン伯は経済的な苦境にあった。そしてヨーゼフもここで「人生最大の失態」(ヨーゼフ談)を犯す。本命の彼女に振られて、傷心の彼は自暴自棄かどうかはわからないけど、彼女の父親から本命の姉アロイジアを体よく押しつけられてしまう。1760年、28歳の時にアロイジアと結婚をする事になってしまった。
 音楽家の「悪妻」として歴史に名を残す彼女との結婚、ヨーゼフが不幸なのかアロイジアが不幸だったのかはよくわからないけども、いずれにしても後世よく言われないのは不幸な事だと言うことで。
 いよいよ破産寸前のモルツィン伯は泣く泣くヨーゼフを解雇する。
 ここでまたまた拾う神が現れる。オーストリア継承戦争で大いに名をあげて大出世したエステルハージ侯爵その人。以前からある宮廷の聖歌隊に加え楽員を拡充し13名(たったこれだけ。今日のハイドン演奏は人数多すぎと言われればそうかも知れない)の宮廷楽団を組織した。
 フランスがイギリスの北米を奪われた(これが後のフランス革命の引き金になるわけだけど)翌年で、ヨーロッパでは7年戦争まっただ中で戦費にあえぎ、オスマン・トルコ脅威にも怯えていたオーストリアで、日本では徳川幕府が第8代将軍吉宗から9代の家重になった1761年、29歳でエステルハージの副楽長にヨーゼフは就任する。今まで聖歌隊を率いていた楽長ヴェルナーはもう高齢でいつをも知れない、実際の楽長はヨーゼフであった。
 貴族でありながら実は有能な軍人であり、音楽に造詣と理解が深いエステルハージ公爵の元、やりがいのある充実した条件での仕事に大いに奮ったヨーゼフなんだけど、1766年、楽長ヴェルナーが死去するとヨーゼフが楽長に昇格し、このエステルハージ宮廷楽団とともに名声を高めていく。
 このあたりからヨーゼフの曲は今までとは気分が変わり、ヨーゼフの物怖じしない性格もあってか、自己の感情を曲に影響させたという「シュトゥルム・ウント・ドランク期」と言われるまさに激しい「疾風怒濤」を想わせる曲をたくさん作っていくわけでした。

 となると、実はこの「疾風怒濤」は連戦連勝のオーストリアの「英雄」(であったかどうかは知らないけども、元帥にまでなった)軍人であるエステルハージ公爵の希望でもあった可能性が無くは無いか?。
 いくらハイドンとは言え、この頃はまだ作曲家が職人だった時代、自分の思いをそんなにも曲に反映していい時代では無かったように思うのだけど、それに時代が安定してくるとこの「疾風怒濤」も変化をして終わってしまう。
 7年戦争も終結し、楽長に昇格して6年後の1772年「疾風怒濤期」のまっただ中に作曲されたのがこの交響曲第45番「告別」というわけ。アメリカ独立の引き金になったボストン茶会事件の1年前、そしてフランスではまだ国王になっていないルイ16世がマリー・アントワネットと結婚した翌年、フランス革命の17年前のことでありました。
 

by yurikamome122 | 2015-04-28 16:56 | 今日の1曲 | Comments(2)

ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の82年の録音で、マーラー作曲、交響曲第7番

c0021859_6433237.jpg 全集を通して聴いて、やはり気になってコンセルトヘボウ管弦楽団での再録音を聴いてみた。
 69年の全集盤と比べると、曲の彫琢が進んで、より深々とした世界が拡がっているこの曲の演奏で、その神秘的な深みは、まるで漆黒の大宇宙に時には吸い込まれるような、時にはそこいら中に煌めく星屑を眺めるような、時には不気味な気分に憂鬱になるような、そんな風になりながら宇宙をさすらうようなロマンティックな気もしてくるのでした。
 各楽章様々のごった煮のようなこの曲で、ごった煮になった様々な表情の音楽に身を任せて流される心地よさと幸福感。
 コンセルトヘボウ管弦楽団も以前より芳醇で熟成された深い響きをしていると感じる。
 深くくらい響きの中で不思議な暖かさと拡がりを感じるのがこの頃のコンセルトヘボウ管弦楽団だった、まさにその響き。
 これをしてこの録音が出たときの評論家達や大方の評価も、私自身もつい少し前まで音楽的ハイティンクの成長と捉えていた。
 成長と言えば確かにそうなのかも知れない。でも全集を聴き通して改めてこの演奏を聴くと成長と言うより率直だった彼が恣意的になったと感じなくもない。曲に率直に情熱的に向き合っていたのはむしろ以前の録音だったと感じなくもない、私はそう思う。マーラー演奏の伝統のある、恐らくは世界で一番初めにマーラー・オケとなったコンセルトヘボウ管弦楽団でハイティンクの情熱で率直に(これが誤解を招いた、たぶん。彼は何もしていないと、そして何もできない能なしだと)マーラーを表現した全集盤はそれはそれで充分に聴き応えがあったと言うのが私の感想。
 でも、82年のこの演奏は以前の録音から13年を経て、コンセルトヘボウ管弦楽団に21年在任してオーケストラと完全な一体感(と聴き手の私は少なくともそう感じる)で壮年期の53歳のハイティンクが表現しようとしたこの曲の世界だったのだと思う。ハイティンク個人がより強くこの演奏には刻まれていると思うのです。これはもう世界観が違った演奏ではないのか?。これはハイティンクの臭いがする演奏だと思うのです。
 私はハイティンクを誤解していた。70年代後半から80年代、ハイティンクを数少ないハイティンクを評価する評論家の小石忠男さんも「多くの演奏家の場合、再録音しても旧録音の存在意義を失わない場合が多いが、ハイティンクの演奏は必ず再録音したものの方がよいと感じた」と書いていた。ひょっとして小石さんもハイティンクの演奏を正当に評価していたわけではないのかも知れない。
 そしてそれをもっと魅力的にしているのが当時のPHILIPSの録音陣。コンセルトヘボウ大ホールでの豊かな残響がこの曲にピッタリ。自然なパースペクティヴが部屋いっぱいに拡がる驚異的な名録音。たぶん録音もハイティンクの意図する表現に合致したものなのだろうと思う。なんでって、あまりに魅力的すぎる演奏の録音だから。

by yurikamome122 | 2015-04-13 10:10 | 今日の1曲 | Comments(0)