ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でシューマン作曲、交響曲第3番「ライン」

c0021859_714799.jpg  春爛漫、やはりシューマンは相応しく、ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団で第3交響曲「ライン」を聴いてみると、アムステルダムのコンセルトヘボウ大ホールの豊かな響きが、高原に吹く風のようでもあり、春の花曇りのような響きのオーケストラも結構豪快に鳴っていて、春の日差しの優しさを感じるように明るく、若葉が萌える深々とした森の中のように爽快すぎずロマン的で、自分のイメージしているこの曲そのものであるのです。

 シューマンのこの交響曲が、精神を患っていたがデユッセルドルフに赴任してかの地の明るい雰囲気の中、シューマンの気分も良く(そんなことはないはずだ、この時期の日記にも家計簿にも体調のかなり悪い記述がけっこうある)書かれたとか、3拍子の第1楽章がどうも「ずん・ちゃっ・ちゃ」にならずに2拍子にきこえ、リズム的にどうも居心地が悪い(これこそまさに様々に変化するライン川の水面の波のようではないか)とか、シューマンは管弦楽法がどうも苦手のようで、響きに色彩感がない(これは管弦楽法がヘタなのではなく、シューマンが意図的にそうした感じがなくもない、だんだん管弦楽法が熟達してきたはずの後年の作品の方が管楽器を塗りつぶす傾向があるように私にはきこえる。第4交響曲の改訂などはもう一聴瞭然、明らかに改定する前の方がスッキリしている。ガーディナーによれば、このシューマンの響きの重さは近代の大きすぎるオーケストラ編成のための響きのアンバランスが原因だそうだ。百歩譲って、もし響かないオーケストレーションだとしても、この演奏を聴けば感じるだろうゲルマンの魂である森の中の木霊そのものではないか。いずれにしても私にはシューマンがああいった響きをオーケストラからだそうとしていたのだと思う。)、そこでマーラーやワインガルトナーなどが楽譜に手を入れて、もっと聴き映えのする響きに変えて演奏していたなど、それらは恐らくは、そこいら中で語られていて、ゴールデンウィークまっただ中、春の心なしかハイな気分にはそんなよく聞かれる話に思いを馳せてもつまらないので、この作品が、この曲を作ったシューマンがのみ込まれていたロマン主義を時代背景とともにちょっと調べてみた。

 前期ロマン派と言っていいのかどうかわからないけど、結構メンデルスゾーンなどとひとくくりにされやすいシューマンはこの曲を書いたのが自由貿易の開放的な雰囲気に満ちていたかどうかは知らないけど、ハンザ同盟都市のデュッセルドルフの音楽監督に招かれた1850年、フランス革命から61年が過ぎている。
 7年来患っていた精神疾患が悪化し医者のすすめでドレスデンに移り住み、もう既に「タンホイザー」を発表済みだったドレスデンの宮廷楽長ワーグナーとも親交を結ぶも、ワーグナーが2月革命(バスティーユ襲撃からもう60年以上過ぎても、その余波はまだ収まっていないのでした)に参加しスイスへ亡命してしまい、シューマンの身辺が不安になったその後のことになる。
 シューマンをブラームスが訪ねる3年前で我が国ではペリー提督の黒船来航の3年前のこと。その頃のヨーロッパの文化はとロマン主義の恵みに溢れていたて、シューマンがこの曲を作ろうとしていたその頃は、後期ロマン派はもう彼の真後ろに並んでいたのでありました。
 ロマン主義は18世紀半ばに興った産業革命とフランス革命という変化に端を発すると言われている。
 産業革命による技術の発展でプロメテウスの火のように合理主義の追求で神をも恐れぬ大きな夢を見た人々は更に徹底的に合理性を追求し、さらなる夢を追いかけ鉄道や蒸気船などが生まれ人々の生活は激変の一途を辿る。しかしながら、その産業革命は農村の手工業に大打撃を与え、大都市に労働者として流入していき貧民街を構成するようになった。 科学の進歩や技術の発展は決して純粋に良いものとは考えられなくなっていった。
 政治的にも「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命の生んだ恐怖政治や、ナポレオンという独裁者の出現と言う矛盾(今のアラブ・中東情勢そのものではないか。彼らが平和と成熟をものにするには彼らの中で大きな戦いを経つつあと100年はかかるかも知れない。だけどその間にロマン主義のような稔りもあるかも知れない)がヨーロッパにロマン主義を起こす引き金となった。
 ロマン主義は冷徹な理性よりも、人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表現しようとする動きのこと。音楽においては、合理的仕組みを確立したのはバッハやハイドンで、古典派によって合理的、理性的、客観的音楽が確立された。その後にフランス革命などに触発されて、あるいは教会や王侯貴族から解放されて感情的、主観的、幻想的音楽、ロマン派の音楽の登場となり、音楽家が職人ではなく芸術家へと移行することにもなったというわけで。
 そしてそれが、ローマ帝国やその後以降の覇権争いも含んだヨーロッパ統一への動きから、民族・言語・領土の神話へのローカルな情熱へとベクトルが向かう。古典主義からロマン主義へ、即ちそれまでの古代ローマや古代ギリシャではなく、中世こそに彼ら独自のルーツがあるのだと言う思想への傾き、現代まで続くヨーロッパ分断の始まりになるのだけど、その結果音楽もローカライズされたものが徐々に増えてゆく。たとえば楽譜の楽想の表記も、シューマンは第2交響曲まで使っていたallegroやandanteにようなイタリア語表記をこの曲の前あたりからドイツ語表記に変えた。
 そして、その後は、「標題音楽」と「絶対音楽」という大変ロマン的な論争が起こり、シューマンと親交が深かった絶対音楽派のブラームスはシューマンの後押しで世に出る。そして、絶対音楽派の旗手となる。表題音楽派の旗手ワーグナーの「タンホイザー」をシューマンは盟友のメンデルスゾーンに酷評した。(ワーグナーもシューマンの音楽にはメロディーがないと酷評していた、メロディーがないって?、ブラームスを擁護していたウィーンの評論家ハンスリックがブラームスにちらりと言っていたおねだり「もう少し、もう少しだけメロディーを」と同じじゃないか)
 シューマンは、今回の曲のような交響曲を作りながら、どちらかというと彼自身絶対音楽派だと思っていたのかも知れない。
 ちなみに蛇足だけど、シューマンはワーグナーの「タンホイザー」の上演を後に接して評価に転じたとか。そしてワーグナーもシューマンに「あなたのピアノ五重奏曲はとても好きです」なんて書いて送っている。
 二人が会ったのはこの曲を書き上げる1年前、1849年シューマン39歳の時にワーグナーがドレスデンでベートーヴェンの「第九」を指揮した時に会ったのが最後だったそうだ。
 ブルックナー25歳、ブラームス16歳、マーラーの生まれる11年前の話。
その後に彼らがロマンを追い求めているうちに、植民地政策の失敗や民族紛争などにより国家間の格差はどんどん広がり第1次世界大戦の火薬の臭いがもうあたりにそこはかとなく立ちこめる頃になる。

by yurikamome122 | 2015-04-30 16:18 | 今日の1曲

ハイドン作曲、交響曲第45番「告別」をヘルマン・シェルヘン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団で

c0021859_16562096.jpg ハイドンの「ロンドン・セット」の初の全曲録音となったのはこのシェルヘンで、その後に全曲録音を目論んだかどうかはよく知らないけども、このように「シュトゥルム・ウント・ドランク期」の録音も残してくれた。オーソドックスな中、ウィーンの香りのするなかなかの演奏だと思うのです。
 ハイドンのこの交響曲に関しては、勝手にバカンスを延長した主人に対し、おつき楽団の連中が帰宅が遅れることに落胆したので、その気持ちを忖度してハイドンが作ったというのはよく知られた話で、多くのところで語られていて、コンサートのパフォーマンス的にも演奏効果と言うよりも、これは多くの場合聴き手側の問題かも知れないけど、たとえばバレンボイムあたりがニュー・イヤー・コンサートで取り上げたりしているように演奏者、主催者側が「ネタ」として重宝する曲目の1つのような取り上げられ方をしている曲ではある。
 シェルヘンはこの曲の演奏で、最後楽員がひとりずついなくなる場面で、彼らに「Auf Wiedersehen」と言わせている。
 気になって人数を数えたら全部で16人。最後の2人は指揮者とコンサートマスターのはずなので、楽員は14人と言うことになる。管楽器がオーボエとホルンが2名ずつ、そして後はファゴット1名なので合計5名、ということは弦楽器は9名という計算。現代のコンサートの編成のように第1ヴァイオリンだけで10名以上いるような編成だとすると、どこかのタイミングで弦楽器がゴッゾリ居なくなるという事態になるので、ハイドンほどの洒落た人がそんな無粋かつヘンテコな演出を容認するわけがないので、とするとコントラバス1名にチェロが2名。そしてヴィオラも2名でヴァイオリンが第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンとも2名で計9名と言ったあたりがこの曲の初演時の編成と言うことになるのかと思う。
 ハイドンがこの曲を作曲したのはハイドンが「シュトゥルム・ウント・ドランク期」まっただ中の曲と言うことになるわけで、1楽章の切羽詰まったテンポの速い短調はピリオド系演奏可能での見せ所と思っているかどうかは知らないけど、それこそ疾風怒濤の如くの演奏を皆しているのだけど、モダン楽器の方は、響きが豊かになるせいか、疾風怒濤と言うよりも運命の嵐的な雰囲気になっているあたり、モダン楽器にではちょっと分が悪いかも知れない。
 ところで、この「シュトゥルム・ウント・ドランク」、「疾風怒濤」なのだけど、エステルハージ家に就職して楽長になりその心境を表したものであるとか無いとか。
 でも、この頃の作曲家は皆職人で、そんなロマンティックなことはあり得たのかどうか。

 ハイドンは、ハンガリー王国領との国境にあるニーダーエスターライヒ州ローラウ村に誕生したのはフランス革命の約50年前、アメリカではイギリス帝国13植民地が成立した1732年の3月31日であった。日本では江戸幕府8代将軍徳川吉宗の時代。
 同業の同年代ではバッハの子供達もそうなる。そしてハイドンの初めの頃の作品はバロック的な印象が感じる気がするのも事実。ところが後期にさしかかり、「パリ・セット」の頃あたりからロマン派の香りがしてくるのは別のところで記した通り。
 はさておき、ハイドンの家庭はと言うと、ハープと歌が好きな車職人の父と宮廷料理人の母親。ヨーゼフ・ハイドンがまじめで職人気質で器用なのは両親譲りなのかも知れない。
 音楽好きの父親の影響を受け、幼い頃から音楽では才能が認められて、歌がうまかったのはヨーゼフとこの下の弟ミヒャエル。どちらも音楽史に名を残すわけど、このヨーゼフはと言うと6歳の時に父のハープの演奏に合わせて歌うハイドンの歌声に惚れ込んだ親戚のマティアス・フランクと言う人がヨーゼフの両親を説得し、ヨーゼフを自分の家に住ませ、音楽に対する英才教育を施し、いろいろな楽器と音楽に関する知識と教養を身につけさせた。

 美声の持ち主だったヨーゼフは、オーストリア継承戦争が勃発した1740年、8歳の時にウィーンの聖シュテファン大聖堂聖歌隊監督ゲオルク・フォン・ロイターが派遣した聖歌隊員発掘隊が偶然聴いた若きヨーゼフをスカウトし、ヨーゼフはウィーンでシュテファン大聖堂聖歌隊員として大聖堂はじめ他の教会のミサでの奉仕、皇帝や貴族の宮廷で催される音楽会や宮廷行事にも出演しつつ、カトリック教理、ラテン語、一般学校の教科が教えられた。これに加えて音楽教育が加わる。それは歌唱をはじめオルガン、チエンバロ、ヴァイオリンの演奏を学べ、ウィーンの他の学校で演じられたラテン語劇に歌手として出演など、声変わりになって解雇されるまで音楽的に大いに実りある9年間在籍することになる(1740-49年)。
 このとき、シェーブルン宮殿で歌った時、ハイドンが建築の足場に登って騒いだという逸話があって、オーストリア継承戦争でさぞ頭を悩ましていたであろうマリア・テレジアに直々に厳しく怒られたという話がある。
 つまり、権力者に物怖じすることなく、「告別」や「うかつ者」「驚愕」などで貴族達に謎かけや悪戯を仕掛けるやんちゃな悪戯好きは根っからの性分だったようだ。
 折しも華やかなウィーンの巷ではヘンデルやヴィヴァルディの音楽ももて囃されていた時期であった。
 1745年の秋、ヨーゼフよりもおそらく歌がうまかった弟のミヒャエル・ハイドンもこの聖歌隊に参入。そしてまもなく兄ヨ-ゼフは変声期を迎えたため、ヨーゼフが得ていた聖歌隊のソリストの地位をミヒャエルに奪われる。
 世間知らずのヨーゼフをカストラートにしようという陰謀にのせられて、その気になりつつあったところをすんでの所で父親の乱入で救われた彼は、変声期もあったけど、ヘンテコな濡れ衣を着せられて、聖歌隊を17歳の歳、1749年に混乱でまだ定職を見つけられないまま残念ながら11月の冷たい雨の降る夜に聖歌隊から追い出されて解雇される。
 捨てる神あれば拾う神あり、街でばったり会ったミヒャエル教会の聖歌隊員ヨハン・ミヒャエル・シュパングラーに泣きつき、幼い子供がいる賑やかな家庭に転がり込んだ。そして、音楽家の卵のアルバイトと言えば今も昔も同じ、ダンス音楽や劇の伴奏などをして生活費を稼ぎつつ、これもヨーゼフにとりよい経験だった。
 やがてそんなヨーゼフに目を付け出資するスポンサーが現れる。やっとシュパングラーの家から独立することになった。
 そして次はウィーンの様々な職人達が一つ屋根の下で暮らすミヒャエラーハウスの6階に居を構える。まるで戦後の漫画家の集まった「トキワ荘」のようなここでは、青春まっただ中の若者らしく同居の友人達と青臭い夢を見ながら、様々な作品を発表しつつ、そして上に下に、右に左に幅広く人脈も拡げていった。
 ヨーゼフ27歳の1759年頃、ボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長の職に就いた。定職である。初めての宮仕えで戸惑いながらも精一杯勤める中、モルツィン伯は経済的な苦境にあった。そしてヨーゼフもここで「人生最大の失態」(ヨーゼフ談)を犯す。本命の彼女に振られて、傷心の彼は自暴自棄かどうかはわからないけど、彼女の父親から本命の姉アロイジアを体よく押しつけられてしまう。1760年、28歳の時にアロイジアと結婚をする事になってしまった。
 音楽家の「悪妻」として歴史に名を残す彼女との結婚、ヨーゼフが不幸なのかアロイジアが不幸だったのかはよくわからないけども、いずれにしても後世よく言われないのは不幸な事だと言うことで。
 いよいよ破産寸前のモルツィン伯は泣く泣くヨーゼフを解雇する。
 ここでまたまた拾う神が現れる。オーストリア継承戦争で大いに名をあげて大出世したエステルハージ侯爵その人。以前からある宮廷の聖歌隊に加え楽員を拡充し13名(たったこれだけ。今日のハイドン演奏は人数多すぎと言われればそうかも知れない)の宮廷楽団を組織した。
 フランスがイギリスの北米を奪われた(これが後のフランス革命の引き金になるわけだけど)翌年で、ヨーロッパでは7年戦争まっただ中で戦費にあえぎ、オスマン・トルコ脅威にも怯えていたオーストリアで、日本では徳川幕府が第8代将軍吉宗から9代の家重になった1761年、29歳でエステルハージの副楽長にヨーゼフは就任する。今まで聖歌隊を率いていた楽長ヴェルナーはもう高齢でいつをも知れない、実際の楽長はヨーゼフであった。
 貴族でありながら実は有能な軍人であり、音楽に造詣と理解が深いエステルハージ公爵の元、やりがいのある充実した条件での仕事に大いに奮ったヨーゼフなんだけど、1766年、楽長ヴェルナーが死去するとヨーゼフが楽長に昇格し、このエステルハージ宮廷楽団とともに名声を高めていく。
 このあたりからヨーゼフの曲は今までとは気分が変わり、ヨーゼフの物怖じしない性格もあってか、自己の感情を曲に影響させたという「シュトゥルム・ウント・ドランク期」と言われるまさに激しい「疾風怒濤」を想わせる曲をたくさん作っていくわけでした。

 となると、実はこの「疾風怒濤」は連戦連勝のオーストリアの「英雄」(であったかどうかは知らないけども、元帥にまでなった)軍人であるエステルハージ公爵の希望でもあった可能性が無くは無いか?。
 いくらハイドンとは言え、この頃はまだ作曲家が職人だった時代、自分の思いをそんなにも曲に反映していい時代では無かったように思うのだけど、それに時代が安定してくるとこの「疾風怒濤」も変化をして終わってしまう。
 7年戦争も終結し、楽長に昇格して6年後の1772年「疾風怒濤期」のまっただ中に作曲されたのがこの交響曲第45番「告別」というわけ。アメリカ独立の引き金になったボストン茶会事件の1年前、そしてフランスではまだ国王になっていないルイ16世がマリー・アントワネットと結婚した翌年、フランス革命の17年前のことでありました。
 

by yurikamome122 | 2015-04-28 16:56 | 今日の1曲

ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の82年の録音で、マーラー作曲、交響曲第7番

c0021859_6433237.jpg 全集を通して聴いて、やはり気になってコンセルトヘボウ管弦楽団での再録音を聴いてみた。
 69年の全集盤と比べると、曲の彫琢が進んで、より深々とした世界が拡がっているこの曲の演奏で、その神秘的な深みは、まるで漆黒の大宇宙に時には吸い込まれるような、時にはそこいら中に煌めく星屑を眺めるような、時には不気味な気分に憂鬱になるような、そんな風になりながら宇宙をさすらうようなロマンティックな気もしてくるのでした。
 各楽章様々のごった煮のようなこの曲で、ごった煮になった様々な表情の音楽に身を任せて流される心地よさと幸福感。
 コンセルトヘボウ管弦楽団も以前より芳醇で熟成された深い響きをしていると感じる。
 深くくらい響きの中で不思議な暖かさと拡がりを感じるのがこの頃のコンセルトヘボウ管弦楽団だった、まさにその響き。
 これをしてこの録音が出たときの評論家達や大方の評価も、私自身もつい少し前まで音楽的ハイティンクの成長と捉えていた。
 成長と言えば確かにそうなのかも知れない。でも全集を聴き通して改めてこの演奏を聴くと成長と言うより率直だった彼が恣意的になったと感じなくもない。曲に率直に情熱的に向き合っていたのはむしろ以前の録音だったと感じなくもない、私はそう思う。マーラー演奏の伝統のある、恐らくは世界で一番初めにマーラー・オケとなったコンセルトヘボウ管弦楽団でハイティンクの情熱で率直に(これが誤解を招いた、たぶん。彼は何もしていないと、そして何もできない能なしだと)マーラーを表現した全集盤はそれはそれで充分に聴き応えがあったと言うのが私の感想。
 でも、82年のこの演奏は以前の録音から13年を経て、コンセルトヘボウ管弦楽団に21年在任してオーケストラと完全な一体感(と聴き手の私は少なくともそう感じる)で壮年期の53歳のハイティンクが表現しようとしたこの曲の世界だったのだと思う。ハイティンク個人がより強くこの演奏には刻まれていると思うのです。これはもう世界観が違った演奏ではないのか?。これはハイティンクの臭いがする演奏だと思うのです。
 私はハイティンクを誤解していた。70年代後半から80年代、ハイティンクを数少ないハイティンクを評価する評論家の小石忠男さんも「多くの演奏家の場合、再録音しても旧録音の存在意義を失わない場合が多いが、ハイティンクの演奏は必ず再録音したものの方がよいと感じた」と書いていた。ひょっとして小石さんもハイティンクの演奏を正当に評価していたわけではないのかも知れない。
 そしてそれをもっと魅力的にしているのが当時のPHILIPSの録音陣。コンセルトヘボウ大ホールでの豊かな残響がこの曲にピッタリ。自然なパースペクティヴが部屋いっぱいに拡がる驚異的な名録音。たぶん録音もハイティンクの意図する表現に合致したものなのだろうと思う。なんでって、あまりに魅力的すぎる演奏の録音だから。

by yurikamome122 | 2015-04-13 10:10 | 今日の1曲

ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でマーラー交響曲全集

c0021859_1332641.jpg この全集は美人の薄化粧のような演奏、それもとびっきりの美人の。
 何が美人かは、もちろんマーラーだしアムステルダムのコンセルトヘボウ大ホールで響くコンセルトヘボウ管弦楽団だし、ピチピチして活きの良さはもちろん30代から40代前半のハイティンク。
 豊満で爛熟した色気をまき散らす演奏も悪くはない(ハイティンクも後年の録音ではそうなっていた)し、ピリオドのアイディアを取り入れたすっぴんのロリータ趣味のマーラーもそれはそれでありかも知れないけど、若さと気高さを備えてナチュラルなこの演奏の魅力は取り憑かれると虜になりそう。
 古い録音で、一番古い録音は1番の62年、コンセルトヘボウ管弦楽団就任後2年目のハイティンク弱冠33歳。
 LP全集では第1番は恐らくはこの全集用に71年の8番の8ヶ月後に再録音された72年録音が納められていたので、CDで全集を出すにあたりなぜLP全集で一番録音が早かった3番の4年前の62年が収録されたのかは不明なのだけど、若さが前面に前に出たような62年のこの録音もなかなかの聴き応えで、なんと言ってもこの録音の魅力はオケの美しさ、響きの深さ、そして合奏の素晴らしさ。いろいろな音が全てジャスト・オン・タイムで響きが空間に音で構築物を作る、そして次々現れる建築物の偉容は聴く方の悦びがわき上がり、これがアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団だった。
 69年録音の7番は後に82年に再録音するものも魅力的なのだけど、こちらも輝かしい。
 70年録音の5番の冒頭のショッキングな響きはこの楽団のものだと思うし、5楽章の構築的な音の流れはホールの響きの中でドッシリと組み上げられてゆく。
 3番や4番など高い合奏力の美しさと響きの深さの中で、ハイティンクがごく自然に音楽を彫り刻んでゆく。
 2番や8番などの合唱が大規模なものは録音のプレゼンスが自然なのでホールに響く大合唱団のスケール感と繊細さに圧倒されるけど、表情は瑞々しくいかにも自然。

 ハイティンクのマーラー全集は国内でLPで発売されたのが76年以前のいつだったか忘れたけどそのあたりだったと思う。その頃の評判はもうハイティンクは最悪で、能なしの毒にも薬にもならない、コンセルトヘボウ管弦楽団の伝統を全てひとりでぶち壊した大罪人のような言われ方をしていて、その彼が66年から72年まで6年掛けて録音した全集。
 あの頃マーラー全集など、もう全員亡くなったけどバーンスタインの旧盤、クーベリック、ショルティ以外はこの今日唯一存命のハイティンクしかなかった。大体全曲聴こうなどと言う酔狂な人はそう多くなかったし、国内でたとえば7番など実演で聴いた人は生きてる人は3000人いなかったのではないか?。
 その頃にこの全集をこのクオリティーで作った心意気、それがそっくり演奏に現れている全集だと思う。

 ただ、たぶんこの全集を評価するかどうかは、背景とのコントラストと薄化粧の美人を肌のきめ細かさまで聴けるかどうかが大きなアドバンテージになっていると思う。

 さてさて、こんどはこれからレスピーギ聴かないと。

by yurikamome122 | 2015-04-12 13:04 | 今日の1曲

シューマンのピアノ独奏曲の全曲をイエルク・デームスの全集で

c0021859_045157.jpg ちょっと前にシューマンの交響曲のことをいろいろ考えていたときに、シューマンのピアノ独奏曲全集などという酔狂なボックスがイエルク・デームスの録音であって、通して聴いてみた。
 私はシューマンは、たぶんシューマンらしさが聴けるのは歌曲とピアノ曲なのではないのかと思うのです。
 そして、その中でも神髄は「クライスレリアーナ」にあると信じて疑わないのですがそれはさておき、交響曲でのシューマンは幻想的で、2番、4番などは「楽想が切れ切れ」、「まとまりがなく」「幻想曲のよう」(以上黛敏郎談)ではあるのだけど、響きの厚みもゲルマン的シューマネスクの世界で大好きなのです。
 でも、やはりシューマンは交響曲ではシューマンの一面で、ベートーヴェンのように多くの作品が「交響曲」の方にベクトルが何らかの形で向いているというのではないと思うのです。
 ということで、シューマンの全容に少しでも触れるるため、このピアノ作品全集を作曲された順番にではなく、たぶんシューマンが最後に発表した「暁の歌」から逆に辿ってみることにする。
 するとシューマンが錯乱する直前に作ったこの曲の心境から、一般に病んだ精神が明るい土地柄で気分が良くなったと言われるデユッセルドルフでの曲もたぶんあの第3交響曲「ライン」を書いたすぐあとに作曲されたものではないかと思う「3つの幻想的小品」などさほど明るいものではない。やはり彼はけっこう病んでいたのではないだろうか。私には緊張感が途切れるようなところもあるように感じる。
 また、この頃の作品は「クライスレリアーナ」や「子供の情景」、「ダヴィッド同盟曲集」などの嵐のような感情のうねりや憧れが当然もう聴けるものではなくなっている。
 そして、でもしかし、「暁の歌」では終曲で私にはシューマンが辛いこの世から解放されて、ひとり安らかに「クライスレリアーナ」や「子供の情景」などで見せていた憧れをついに手に入れて、ついに楽園での平安を手に入れたように感じるのです。
 でも、聴き終えたあと、私の傍から音が、余韻が消えた後、さみしさが身にしみる曲でありました。

by yurikamome122 | 2015-04-11 00:46 | 今日の1曲

ハイドン交響曲全集をアダム・フィッシャー指揮、オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団で

c0021859_6204870.gif 1番から104番まで一気に聴き進めてみる。
 こんな全集、作る方も偉業なら聴く方も偉業だと思う。
 でも、全曲一気に通して聴くのはこれはできるならやった方がいい、ハイドンが生きていた時代と「交響曲の父」としてのハイドンの偉業を改めてなぞることができる。
 フランス革命という大変にロマンティックな出来事が、実はフランスのアメリカ植民地経営の失敗とイギリスによるフランスの植民地の奪取から財政危機に陥り、国内の課税強化をした結果が引き金となったというのは単に引き金に過ぎず、やはり時代の流れ、運命のようなものだった気がするように感じるようになった。
 エステルハージに行けたのは運が良かった、全人類的に。でも、それまでに積み重ねた素養と才能は、そうできる下地があったことも奇跡的なことだった。
 ハイドンほどの才能が長い時間じっくりと音楽だけに集中し、熟成する環境ができた。
 バロック的な響きから(事実ハイドンの生まれたときヴィヴァルディもバッハも活躍していた)からモーツァルトの死を見届けベートーヴェンに弟子入りを懇願されたハイドンは時期的にバロックからロマン派への流れそのもの。古典派の作曲家ではあるけど、でも後期のパリ・セット以降はロマン派の香りがしてくる。
 長旅だったけど楽しかった。

 演奏はと言うと、割と早めに録音した「太古連打」などは響きの操作した跡がちょっと耳障りだけど、それ以外はモダン楽器の響きで昭和に時代に慣れ親しんだハイドンに響きに近く、かといって巨匠達の響きのように厚ぼったくもなくピリオド的に颯爽と演奏しているのは聴いていて違和感もなく心地よかった。
 中には激しい表現も聴けたり、熱い情熱を感じたりするのも曲相応なのかも知れないし、、でもこれだけのレベルを保ちつつ全曲をやり通したのはお見事だったと思うのは、聴き終わったあとの充実感がずっしりと心に残るからなのです。
 いい仕事をしてくれました。ハイドンと一緒だった2週間、楽しかったです。

by yurikamome122 | 2015-04-07 06:21 | 今日の1曲

ビッキーで「恋はみずいろ」

c0021859_040637.jpg フランスもの方面で、けっこうハマったのが「恋はみずいろ」。これは
 といえばポール・モーリアがきっとすっごく有名で、でも、元はビッキーの歌でヒットしたのをポール・モーリアがムード音楽(あの当時、イージー・リスニングなどという言葉はなかった)にアレンジして世界的に大ヒットというわけだけど、あのお馴染みのアレンジ、レコード会社から「ラッパが強すぎる」とクレームがついたのだそう。のちにポールさん自身がそう語っていた。それを無理矢理ポールさんが押し通してあの大ヒットというわけ。
 ビッキーはフランス語で歌っていて「doux doux L'amour est doux」と冒頭からうたっていてフランス語がとってもオシャレで、テレビで初めて見たビッキーは本当にフランス人形のようで驚いた。



 そのレコードを私が住んでいた農村のど真ん中の浄水場に勤めていたギターを弾くお兄さんがよく聴かせてくれた。そのB面が「悲しき天使」なんていうなかなかのカップリングのシングル盤だった。
 幼かった自分には1ドル360円時代、埼玉の農村育ちが海外への憧れをかき立てるのには充分すぎたわけで、同年代の友人達が仮面ライダーやウルトラマンなどに憧れていた彼らからすればかなり私は変わった人のようであったはずだと思う。
 ところで、ポールおじさん方面のアレンジでは、レーモン・ルフェーヴルやカラベリなどはそれらしすぎてつまらないのだけど、ジェフ・ベックがロック風にアレンジしていて、これもいけてた。youtubeにあった、久々に聴いてみたら懐かしすぎて切なくなった。



 それからシルヴィ・バルタンはもちろんやっぱりフランスっぽくって良かったと思ったら、よく聴くと「Blue, blue, my world is blue」英語で歌っている。でもやっぱり多少フランスなまり、英語もフランス語もわからなかったくせにフランスなまりの英語だと思った。でもこれも良かった。



 そうそうシルヴィ・バルタンといえば、レナウンのコマーシャル「ワンサカ娘」を歌っていたよね。



 時々彼女が呟く「C'est bien」がなんというか、ここで言うとフランス人が言ってもどうもなんというか、以下略

by yurikamome122 | 2015-04-02 00:40 | 今日の1曲

チェリビダッケ指揮でマーラー作曲、交響曲「大地の歌」

c0021859_1971064.jpg 深く仏教にも共感していたというチェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(実はこの曲は、ブルーノ・ワルターの指揮により、このオケで初演されたのでした)とメゾ・ソプラノがジェシー・ノーマン、テノールがチェリビダッケ在任時のシュトゥットガルト放送交響楽団のファゴット奏者だったがチェリビダッケの勧めでテノール歌手に転身したというジークフリート・イェルザレムというすごい顔ぶれ。
 今日からちょうど23年前の1992年4月1日のミュンヘンでのライヴ録音。もちろん裏青の海賊盤。
 どうもFM放送などからの盤起こしのようで、多少のホワイトノイズが乗っているが状態はなかなか良い。
 冒頭の絶叫するホルンは透明ながら、もうそこから多くのことが語られ始める絶妙な演奏。
 チェリビダッケはミュンヘン・フィルとの1986年のライヴを聴き怒り心頭になり今ひとつ好きになれない指揮者ではあるのだけど、これは素晴らしい。
 イェルザレムのちっと非力なところもなかなかにこの1曲音に合っている。
 チェリビダッケ指揮のミュンヘン・フィルの重厚な透明感が運命の瓦解と言うか、諸行無常を現すよう。
 テンポは昨日のクレンペラーよりも遅いかも知れないと感じる彼の「大地の歌」は、寂寥感とともに吸い込まれそうな漆黒の神秘に満ちている。
 2楽章のノーマンの歌唱はさすがとしか言いようがない。黒人特有のヴィヴラートが気にはなるけども、全盛期を過ぎた頃とはいえその表現力は絶大。
 でも、この演奏の圧巻はやっぱり第6楽章の「告別」。
 もう既にこの世が宇宙から消えてしまった空虚な空間から響くような冒頭からしてもうこの世のものとは思えない。やはりマーラーは死なねばならなかった。
 途中の間奏曲の美しさがあまりに耽美的で懐古的。そしてそれがもう現実ではないことを実感させるような哀しみは、人間何十年もやっていると、どうしても捨てきれない過去があって、そのツボを直撃する。
 そして最後、「愛しき大地に春が来て」以降の信じられないような哀しみの世界は、ノーマンの独断場で、しかもオケも素晴らしすぎ。
 チェリビダッケはマーラーを「痛ましい」と言ってどちらかというと嫌っていたはず。でもこんな素晴らしい音源が残っていたなんて。

by yurikamome122 | 2015-04-01 08:29 | 今日の1曲