ベートーヴェン「第9への道」第5回 ベートーヴェン作曲、歌劇「レオノーレ」第3幕最終場面

c0021859_533287.gif 歌劇「レオノーレ」というのは「フィデリオ」の第1稿のこと。
 ベートーヴェンが35才、ア・デア・ウィーン劇場に住んでいる時に作ったけどナポレオンがウィーンに攻めてきたためドイツ語のわかる聴衆が誰もいなくなり、フランス人の前での初演だったため言葉もわからず大失敗となってしまった。現在の第3稿になるまで以降10年近くも試行錯誤を繰り返すハメになる。
 これも今となっては「喜びの歌」と日本で言われている、昨日の歌曲「友情の喜び」同様あの例の歌曲「相愛」でも扱ったパリのコミック・オペラのあのメロディを再び扱う。
 歌詞は以下の通り。

 Tyrannenstrenge sei mir fern.
   暴君の厳格さは私の欲するところではない。
 Es sucht der Bruder seine Brüder,
   兄弟が兄弟を求めて、
 Und kann er helfen, hilft er gern.
   救うために喜んで来たのだ。

 Wer ein holdes Weib errungen,
   やさしき妻をもつ者は、
 stimm in unsern Jubel ein!
   われらの歓呼に声を合わせよ。

 合唱で歌われる最後の2行はどこかで聞いたことがある。
 筋はいたって面白くない。
 拘留された政治犯の夫を救い出そうと妻が男の姿(なんで男装という発想になるのかよくわからないけど)になって刑務所に職員として潜り込む。そうこうしているうちに公明正大な偉い人がラッパとともにやってきて、役人の不正が暴かれ夫は釈放されるというもの。
 実は夫も妻もオロオロするだけでなにもやっていない。解決したのはラッパとともにやってきた公明正大な偉い人。
 まるで「水戸黄門」のように悪い小役人が御上に裁かれる。「お天道様はいつも見ている」的しょうもない内容。
 だけどこのオペラ、フランス革命などをまさについさっき通り過ぎた激動のヨーロッパらしく、これほど直截な政治的な事柄を扱ったオペラというのはひょっとして初めてなのではないだろうか。モーツァルトの「フィガロ」でさえ体制批判と言われた時代がそう遠くではないあの時代に、政治犯の夫を助け出すというのは結構大胆な筋だと思う。
 現代日本で時代劇が根強く生き残っているので案外ちょんまげ時代劇風の演出は日本でうけるのかも知れない。
 でも、実はベートーヴェンが讃えているのは「お天道様」ではなくってこの夫婦なのではないのだろうか。
 必ずしもそうではなかったとはいえ、ベートーヴェンにとってはあまり良いとは言えなかった家庭に育った彼は案外「自由」「平等」「博愛」とともに、もっと強く「あたたかな幸福な家庭」に憧れてた気がしないでもない。
 演奏は、1814年版の最終稿「フィデリオ」でもいいのだけど、このフィナーレは実は第1稿から大きく書き換えられているので、さんざん渋って書き換えさせられた第3稿「フィデリオ」ではなくて初演版の「レオノーレ」をブロムシュテット指揮、ドレスデン国立歌劇場の面々で。
 ただ実際はここで演奏されている「レオノーレ」が初演版かどうかは疑わしいかも知れない。いろいろな人の手の入った楽譜で可能性があるのはガーディナーが言っている。
 でも、若きブロムシュテットのスマートで洗練された溌剌とした演奏が、伝統を感じるドレスデンの歌劇場を率いて颯爽とやっているのは聴いていて楽しい。
 そして、ブロムシュテット唯一のオペラの録音。彼は体質的にオペラが合わないらしいのはドレスデンでブロムシュテットの同僚だった若杉弘さんが言っていた。

by yurikamome122 | 2015-12-06 23:59 | 今日の1曲 | Comments(0)

美しすぎる響き、ブロムシュテット指揮、シュターツカペレ・ドレスデンでブルックナーの4番を

c0021859_22195760.jpg 「ブルックナーは9曲の同じ曲を作った」と言うのは誰が言ったのか忘れたけども、「千と一つの子守歌」(「一つの子守歌」はもちろん「ブラームスの子守歌」)を書いたと言われるブラームスが「交響的大蛇」と宣ったブルックナーの交響曲、ナルホドナと思う。
 ブルックナーの交響曲第8番の初演(1892年12月)後に曲の感想を直接求められたブラームスは、「ブルックナーさん、あなたの交響曲は私にはわかりません」、するとブルックナーも「私もあなたの交響曲について同感です」、と応じたとのこと。
 でも、いろいろな本を読んでみると、多分にユダヤ人を含む「金持ち、知識階級」対科学技術の利用や社会の合理化や中央集権化を推し進めて社会の近代化をリードしてきた「自由義的な教養市民層」の争いに巻き込まれ利用されていたフシがないでは無い気がする、その当時に盛んだった、「絶対音楽」対「標題音楽」の戦いに関しては、ブルックナーはワーグナーに心酔していたため「標題音楽」陣営とみられていたのだけど、彼の音楽は「絶対音楽」ではないのか?。(もっともこの曲はブルックナー自身手紙で「ロマンティック交響曲」と書いていたように、それなりのイメージはハッキリ持っていたようだ)

 ブルックナーがベートーヴェンが第9を、シューベルトが「死と乙女」を作曲していた1824年に生まれたとか、ベートーヴェンやシューベルトの影響を強く感じる独墺の流れの中にあること、そして教会のオルガニストだった生まれや育ち、教会との関わりや彼の作曲した初めての長調の曲であると同時に唯一作曲者自身が説明書きを付けた曲だとか、また混乱を招きやすい版の問題も含めたこの曲の出で立ち、「原始霧」や「ブルックナーリズム」、持続低音を多用する曲のアウトラインやなどは、もう語り尽くされた感もあるし、それでもなお語りたくなる話でもあるわけだけど、この「交響的大蛇」は取っつきが悪いのです。
 平面的に拡がりながらゆっくり盛り上がるブルックナーの曲は長いし、ぶっきらぼうだし、繰り返しが多いし、特にこの曲は金管の活躍が目立って、そしてブルックナーではいつも語られる宗教性なんて物を持ち出されると、いつもは宗教を意識しない日本人にはなおさらのこと敷居が高くなってしまう。そんなブルックナーの曲を「逍遙」と言った人もいたけど、逍遙なんて言ったって。。。。
 今から30年くらい前の話、ブルックナーの交響曲全集がヨッフムがバイエルンの放送局のオケとベルリン・フィルで入れたものと、ウィーン・フィルのブルックナー全集というのがあって、そんなのは一人の指揮者ではなく、一つのオケをいろいろな人が振ったという異色のコンセプト、あとはカラヤンとバレンボイムが進行中で、今では結構普通に手に入るハイティンクのものが廃盤、あ、そうそう、朝比奈さんも出していた。カタログにはそれくらいしかなかったんじゃないかな。
 なにせ、4番と7番、9番、それに8番あたりまで語れたらもうブルックナーの専門家と言われそうな時代だった時にU野さんという人がブルックナーの魅力をさんざん書きまくり、語りまくり、クナッパーツブッシュやシューリヒトなんて薦めたもんだから、録音は悪いし、語り口は古くさいし、とにかく彼の薦めるブルックナーは私には暇だった。

 でも実際、ブルックナーの交響曲の魅力は、まさにこの取っつきにくさの原因かも知れない「長さ」、そしてやたらと多い「繰り返し」、そして「リズム」。
 「原始霧」から始まる音楽は、大概は多少厳しさや聳えるような雰囲気を出しているのは、神奈川フィルの前音楽監督のシュナイトさんが「ブルックナーはアンスフェルデンと言うところで生まれて、アルプスの見えるところだ。そのアルプスは日本のような優しい森ではなく峻厳な岩や氷がむき出しの冷たいものである」と言うようなことをブルックナーのコンサートで言っていたけども、それも影響しているのかも知れない。
 主題の提示からして、というか初めのメロディーからして既にたたずんだ森の中の風で次々表情を変える木々や草花のようにのように微妙に、そして絶妙に休むことなく表情を変えていく。実際、交響曲第4番で私が初めて感動した演奏のブロムシュテットとドレスデンのシュターツカペレの演奏は第2主題が出てくるまで様々な音色の変化があって、それがまた聴き惚れるのだけど、曲が始まって第2主題にたどり着くまで1分30秒くらいかかっている。15秒のCMが6本終わる長さ。でもそこにはたっぷりと情景が詰まっていてそれはもう。
 そして山々に響く木霊のように、またベートーヴェンの「田園」の、小林研一郎が言うところの果てしなく続く田園風景のような短いフレーズの繰り返しが、時に原始的な神秘を感じさせて、また違う場面では幸福な景色の雄大さを、またあるときは、土俗的な力強さになる。
 初めて聴けば、次々変化する長大な音楽は、初めて登る山の登山のような苦痛と息切れを感じるかも知れないけども、二度目の登山は一回目では気付かなかった様々な絶景に目を奪われることになる。これこそまさにブルックナーの魅力11曲あるブルックナーの交響曲はブルックナー11名山の登山を楽しめるというわけ。
 様々な場面で宇宙の鳴動のような分厚いオーケストラの全奏やスペクタキュラーな音楽の展開は、これはもう神々しさまで感じてしまう。
 人々が、連休にはこぞって高原の温泉付きの保養地に出かけるように、ブルックナーに開眼した人はブルックナーの音楽を、響きを欲しくなってしまう。
 フーゴー・ヴォルフなんて「ブルックナーの交響曲は、どちらかといえば美的価値の低いような作品であっても、それはチンボラソ山(海抜ではエベレストよりも高い山、すなわち世界一)のごとくであり、それに比べればブラームスの交響曲などモグラの盛り土に等しい」なんて言っている。
 でも、ブラームスのように緻密な部品を組み合わせたような技とベートーヴェン以来の、恐らくは「田園」ではなく「運命」の伝統を融合させたレンガ造りのドッシリとした建物のような音楽を作るブラームスには、長く、微妙な変化でベートーヴェンの「田園」の第1楽章のような短いフレーズの繰り返しがあって、そしてフレーズがウネウネうねっているようなブルックナーの音楽はまさに「交響的大蛇」であったろうと思う事はおおよそ私には想像に難くなく、うまいことを言うなと。
 そんなわけで、ブルックナーは、楽曲分析なんて面白そうで、やはりそれなりにブルックナーの霊感をより身近に感じることができるのだろうと思うけど、この曲も含めて大自然の中のように聴き所が延々続くブルックナーには、アルプスの登山で、「この山々はアフリカ大陸がヨーロッパ大陸へ衝突したことで、白亜紀にテーチス海で堆積した地層が圧縮され盛り上がって出来た」なんてことを考えながら、足下の岩肌や自生する植物を採取観察しながら上るのも一興ではあるけども、純粋に景色を楽しんではどうだろう。
 この曲は、聴けば聴くほどアルプスの大自然の中にたたずむ古城や教会などが、まるでメルヘンの絵本をめくるように現れる気分になってくる。
 実際、萌える木々の緑のような分厚い弦に、聳える稜線のような金管楽器に打楽器。そして鳥のさえずりのような木管楽器、「神奈川フィルの音楽案内」で前ヴィオラの首席の柳瀬さんが言っているように、第2楽章のヴィオラの歌う旋律のロマンティックで美しいことといったら。

 この曲の出会いは実はベームとウィーン・フィルの録音だった、件のU野さんが「本当は別の人がいいけど、録音もいいし、これも結構聴けるよ」的な推薦をしていたので購入、でもこのぶっきらぼうな取っつきにくさに交響曲第4番「ロマンティック」山は遭難の憂き目に遭ったわけで、その後にU野さんのミソクソに言うカラヤンも途中で遭難、ハイティンクもケンペもダメで、クーベリックもなんだかのびきったラーメンのよう。メータはロスがスター・ウォーズ的な音がして登山の気力をなくしてしまった。(これらは今聴くとなかなかなんだけどね)
 で、その時出たのがこのブロムシュテット盤。冒頭から美しかった、そして雄大でスマートで、神秘的で。これで一発開眼した私は、その数年後にこのコンビの解消直前か解消直後に来日したコンサートで金管の強奏に決して負けない、それこそオルガンのペダルのような分厚く圧倒的に響く弦の威力と凄い音量でありながら決して瑞々しいニュアンスを失わない管楽器群にすっかり魂を奪われて、4楽章の最後で感動のあまり本当に震えが来て、目眩がして、不覚にも演奏直後に真っ先に、いの一番に手を叩くという失態をした苦い経験があって、それ以来この演奏で「ロマンティック」山制覇をした私はその後なんどこの山に登った事だろう。
 正直に告白すると、今でもこの曲の録音では、たとえブロムシュテットゲヴァントハウスでより深い演奏をしようが、サンフランシスコでスペクタキュラーな演奏をしようが、なんと言ってもオケの威力が絶大なこの演奏が私の「オンリー・ワン」であり続けておるのです。やっぱりブルックナーは景色がよくないと。

 ところで、この曲に関してブルックナーは言っている。

 「中世の町-暁の時刻-朝を告げる合図が町の塔からひびいてくる。城門はあけられ,立派な馬にまたがって騎士たちは,野外へと駆って出る。美しい森が彼らを受け入れ,森はささやき鳥は歌う,みごとなロマンティックな情景である」

 と言うことは大自然に囲まれた高原ではなく、中世ヨーロッパの城塞都市ではないか。
 そして昨今驚いたことに、この曲の作曲者の意向を無視して響きをワーグナー風に変えて、大胆なカットを施してある、噴飯物の改悪版であるとされていた「シャルク・レーヴェ改訂版」がベンジャミン・コースヴェットという学者の話ではブルックナー本人の全面監修の元に行われていて、そこにはブルックナーの意思が確かに反映されていたと言うことも判明してきて、と言うことは、今まで私がこれこそブルックナー本人の最終的な意思に一番近いと思っていた、たぶん一番録音が多い版であろうノヴァーク版第2稿1878/80年版が実はブルックナーの最終的な意思とは違うと言うことになる。
 この曲の大成功した初演時の楽譜はこの噴飯物の改悪版であるとされていた「シャルク・レーヴェ改訂版」だった。ワーグナーの「パルシファル」初演の前年、死の2年前、ブラームス第4交響曲の3年前の話。
 他の交響曲から感じるようなブルックナーらしさを感じるのはブロムシュテットがこの録音で演奏している「ノヴァーク版第2稿1878/80年版」だと思うのだけど、でも試しに久々に「シャルク・レーヴェ改訂版」のクナッパーツブッシュを聴いてみたら響きがやっぱり違うけども、ブルックナーのイメージの言葉に近いのはこっちかななんて思ったりして。
c0021859_2224302.gif で、そのあたりを今度「シャルク・レーヴェ改訂版」をもう少し整理改訂した「コースヴェット版」の演奏もヴァンスかとミネソタ管弦楽団で聴いてみたらば、これがどうもクナッパーツブッシュには到底及ばないスケールの小ささは、U野さんの言いたいことは今頃になってわかる。 

 でも、こんなふうに、ブルックナーの曲は幾つかの楽譜が出版されていて微妙に、また大胆に違っていて、登山道の整備状態の変遷で魅力が失われたり、新たな発見があったりというのはますます登山に似ていて、1曲で2度も3度も楽しかったりする。
 もう10年以上前になるはずだけど、前音楽監督のシュナイト指揮でこの曲の超名演をした神奈川フィルなんだけど、シュナイトさんの演奏が、確か公式プログラムには「ハース版」と書かれていたのだけど、「シャルク・レーヴェ改訂版」のアイディアも多少聴き取れたりして、それがあの演奏を好きになれなかった理由だったんだけど、今になってもう一回聴きたいけどそれはかなわないんだよね。

by yurikamome122 | 2015-09-16 22:29 | 今日の1曲 | Comments(2)

シューベルト作曲、交響曲第8番「未完成」 ブロムシュテット指揮、シュターツカペレ・ドレスデンで

c0021859_17225392.jpg シューベルトって初めて耳にしたときに「ハッ」と思うような優しい旋律もいっぱい書くんだけど、それのどれもが凍えそうな寒い冬の夜に自宅に戻り、ストーブの前で飲むあったかいミルクのようで、つまり、いやんなっちゃう絶望のさなかに差しのべられる暖かいぬくもりのようで、で、この「未完成」はそんなシューベルト像がいかにもツボにはまったような曲だと思うのは、ウィーン・フィルの演奏するこの曲よりも、若き(と言っても50代の前半だけど)ブロムシュテットがドレスデン時代に録音したこの演奏を聴くと歌よりもそんなドラマ性を強く感じたりするのです。
 低い声で呟くようなベースのあと、荒涼とした木枯らしの吹く荒れ地をさまようようなあの旋律。
 ヒタヒタと迫り来る悪魔の影のような弱音からクレッシェンドするヴァイオリンの高音。
 そして、運命の定めにより降りかかる苦難のようなティンパニの一撃は聴き耳を立てている私を怯えさせて、そしてやがて優しい旋律でつかの間、小さい頃に母親に抱かれたあのぬくもりを思い起こさせる。
 でもそれはホンのつかの間なのでした。
 2楽章は既にもう死んでいる。
 でもマーラーのように達観して解脱して浄化されていくのではなく、死後の闇を彷徨いながら感情も無く繰り広げられるドラマの中で、そんな自分を見て慟哭する自分自身がいるような。
 救いが無い中に、それでも一縷の救いを夢見ているような残酷さ。ひどすぎるだろう、こんな曲。
 恐ろしい曲なのは知っていたけど、この演奏を聴いてもっと恐ろしい、イヤな曲なんだと。
 でも、辛いときはこういう音楽がいごこちが良かったりするんだよね。

by yurikamome122 | 2015-02-23 17:23 | 今日の1曲 | Comments(0)

ニールセン作曲、序曲「ヘリオス」

c0021859_16385235.gif 今年はシベリウス、ニールセンのメモリアルイヤー。
 どちらも神秘とスケール感を私は感じるのだけども、そのなかでもニールセンを聴き込んでみると、だんだん魅力に取り付かれてくる。
 「北欧のマーラー」と言ったのは誰だか忘れたけども、もっと素朴で荒々しいように感じる。何より、そんな素朴さから感じる拡がり感に魅力を感じたりするわけです。
 そんなニールセンの中で一番初めに取り上げたいのは「ヘリオス」序曲。
 ギリシャを訪れたニールセンが、エーゲ海の日の出に感銘を受けて作曲したという曲。
 夜明けの神秘と、劇的な開放感がヒロイズムを伴い雄大に眼前に広がるようなこの曲は、ニールセンの醍醐味だと思うのです。
 演奏は、スマートで流麗なブロムシュテットはさすが。メリハリの付いたドラマが表情豊かに語られる。夜明けのところのフーガのようなところなんて繰り返されるメロディーに幾重にも重なる情景がお見事。それでまた、朝日のホルンのかっこいいこと。
c0021859_16392811.gif でも、古いトゥクセンの録音も無骨で、ヒロイズムを演出しつつ凛としたたたずまいが魅力的。


 さまざま事情があり30年来勤務したゼネコンを退職し、フリーランスに。いろいろあったけど、それが許されるようだ。
 プライベートなことはさておき、ブログもFacebookも再開。
 
 現在のシステムのLineupは、ほぼ自作でコンプリート。学生時代から憧れていた「無線と実験」誌の執筆者であられる安井章先生にご指導もいただきながら、ほぼ安井式で固めてあるのだけど、それはそこ、自作の強みで僭越ながら若干手を入れてあります。

プリ・アンプ
 「MJ無線と実験」2015年01月号、02月号掲載の安井式
  (「MJ無線と実験」2011年3,4月号掲載のEQアンプを内蔵)
パワー・アンプ
 「MJ無線と実験」2012年11、12月掲載パワーアンプ
スピーカー・システム
 先だってM氏に納品し、以前から試聴会で使っているPeerlessの830869にAudaxのW034X0の2WAYを、「MJ無線と実験」の2014年に安井先生が連載したネットワークに変更をして、更にツイーターをソフトドームからDayton Audio のPT2C-8に変更したもので、若干のユニット位置も再調整してる。
DAC
 Wolfson WM8740 24bit/192kHz
レコード・プレーヤー
 DENON DP-59L、カートリッジDENON DL-103

 豪快で雄大で繊細なリアリズム。
 世界各地のホールの雰囲気と静寂感をここに再現しているのは、世界中の名ホールにコンサートに行っているようで嬉しい。
 問題はルームアコースティックで、さまざま苦心をしております。
 というわけで、お近くにお越しの際はぜひお寄り下さい。

by yurikamome122 | 2015-01-30 16:49 | 今日の1曲 | Comments(0)