タグ:考察 ( 32 ) タグの人気記事

ベートーヴェン「第9への道」第1回 ベートーヴェン作曲、歌曲「相愛」WoO.118

c0021859_5413264.gif ベートーヴェンの「第9」のあの詩に出会ったのがまだ10代の1789年、フランス革命の年。彼の本拠地がまだボンのパン屋の上で、母の死の翌々年。そして第9交響曲の完成が1824年だから既に54歳、彼が57歳で亡くなったのが1827年なので彼の音楽人生のほとんどがこのシラーの詩と関わり合っていた一生だったりするのかも知れない。
 その足跡を辿ってみる
 先ずは1795年発表の歌曲「相愛」WoO.118。
 作詞は1700年代中盤から後半に活躍したドイツの詩人、ゴットフリード・アウグスト・ビュルガー。愛をなくした嘆き、そして「相愛」への憧れを歌ったこの曲は、後半相愛への憧れを歌う場面で「合唱幻想曲」のあの「第9」によく似たメロディーが出てくる。
 この曲の詩も「第9」の萌芽を感じるものだし、ここいらへんがあのメロディーの始まりなのかも知れない。
 ところで、その「第9」に似たちょっとヘンテコなこのメロディーはベートーヴェンがシラーのあの詩に出会ったボン大学の聴講生だった頃によく聴いたフランスオペラコミックの中で結構何度も出てくるメロディから取ったらしい。どうりでチャチでヘンテコだと思ったら。
 で、このメロディが使われていた場面というのが、大勢の人間で何かを共に成し遂げようとか、喜びを分かち合おうというシーンだったらしい。
 ベートーヴェンがハイドンへの弟子入りのためウィーンへ出て3年後、ピアノ協奏曲(第2番)などをひっさげてブルク劇場へ演奏家としてデビューをした年の作品でありました。
 ペーター・シュライアーのテノールとワルター・オルベルツのピアノで。

 歌なしのyoutubeはこちら。メロディーだけでもお聴きあれ。
(なぜか先にWoO116が出てきてしまうのだけど、その次に聞けます)

by yurikamome122 | 2015-12-02 17:45 | 今日の1曲 | Comments(0)

ベーム指揮、ウィーン・フィル他でベートーヴェン作曲、交響曲第9番(80)

c0021859_17451944.jpg モダン楽器での「第9」は、作曲された当時の古い楽器を使ったもの、誰もがお約束のように言う「ベーレンライター」の楽譜を使う事が主流になっている今となっては賞味期限切れの印象がないではないのだけれども、でも改めてベルリンのカラヤン、ウィーンのベームと並び称されたカール・ベームの死の直前演奏を聴いてみた。
 オケは勿論ベームが連れてきたコンマスのゲルハルト・ヘッツェルを初めとするウィーン・フィル、合唱は国立歌劇場合唱団にジェシー・ノーマンはたぶん全盛期だったんじゃないのかな、それにファスベンダーとドミンゴ、ベームではお馴染みのワルター・ベリーという面々。
 演奏はと言うと、ウィーン・フィルの、70年代から80年代のウィーン・フィルの響き、綺麗ばかりではない猛々しくも無骨な音楽がピンと張り詰めた緊張感を伴って音の綾が紡がれるように旋律が絡み合う中に描かれる世界観は強力な説得力があった。
 なんだろうね、この懐かしくも垢抜けない表情の荒々しい厳しさと、どんどん吸い込まれて静寂の中浄化されてゆくような奥深さの表現の幅の広さは音楽の懐の深さ。
 ベーム本人が自覚していたかどうかはわからないけれど、もうすぐこの世を去る老指揮者が、もう彼の日常になりつつある静寂の支配する彼岸の清澄な突き抜けた世界を音で見せてくれている気がしてくる。
 一連のベームの晩年の録音は、「老害ベームの、よせばいいのに偏屈頑固ジジイの独りよがり」、「手綱の緩んだポンコツ」なんて私は言っていて、全く違う。あの頃は私はいったい何を聴いていたのだろう。そんなこと言った自分の方がよっぽど・・・・・・
 スマートでもないし、どんくさいし、どっちかと言えば田舎くさいイケてない演奏の部類に属する気がするのだけど、特に第2楽章、そして第3楽章の素晴らしく魅力的なことと言ったら。
 な説得力の前では唯々スピーカーから流れてくる音楽に引き込まれて、虜にされてしまうのでした。

 明日から毎日欠かさず10年ぐらい続けていた以前のブログで2012年の12月に入ってシリーズ化した【「第9」への道】を再掲。
 フリーランスになって、自分の部屋で作業をしながら、勉強をしながら、たまにはじっくり音楽を聴ける環境ができたので、ベートーヴェンのボン時代からの晩年の作品である「第9」の頃までこの曲がベートーヴェンの成長と共にどうあったのかを改めて辿ってみたくなったワケです。

by yurikamome122 | 2015-12-01 17:46 | 今日の1曲 | Comments(2)

美しすぎる響き、ブロムシュテット指揮、シュターツカペレ・ドレスデンでブルックナーの4番を

c0021859_22195760.jpg 「ブルックナーは9曲の同じ曲を作った」と言うのは誰が言ったのか忘れたけども、「千と一つの子守歌」(「一つの子守歌」はもちろん「ブラームスの子守歌」)を書いたと言われるブラームスが「交響的大蛇」と宣ったブルックナーの交響曲、ナルホドナと思う。
 ブルックナーの交響曲第8番の初演(1892年12月)後に曲の感想を直接求められたブラームスは、「ブルックナーさん、あなたの交響曲は私にはわかりません」、するとブルックナーも「私もあなたの交響曲について同感です」、と応じたとのこと。
 でも、いろいろな本を読んでみると、多分にユダヤ人を含む「金持ち、知識階級」対科学技術の利用や社会の合理化や中央集権化を推し進めて社会の近代化をリードしてきた「自由義的な教養市民層」の争いに巻き込まれ利用されていたフシがないでは無い気がする、その当時に盛んだった、「絶対音楽」対「標題音楽」の戦いに関しては、ブルックナーはワーグナーに心酔していたため「標題音楽」陣営とみられていたのだけど、彼の音楽は「絶対音楽」ではないのか?。(もっともこの曲はブルックナー自身手紙で「ロマンティック交響曲」と書いていたように、それなりのイメージはハッキリ持っていたようだ)

 ブルックナーがベートーヴェンが第9を、シューベルトが「死と乙女」を作曲していた1824年に生まれたとか、ベートーヴェンやシューベルトの影響を強く感じる独墺の流れの中にあること、そして教会のオルガニストだった生まれや育ち、教会との関わりや彼の作曲した初めての長調の曲であると同時に唯一作曲者自身が説明書きを付けた曲だとか、また混乱を招きやすい版の問題も含めたこの曲の出で立ち、「原始霧」や「ブルックナーリズム」、持続低音を多用する曲のアウトラインやなどは、もう語り尽くされた感もあるし、それでもなお語りたくなる話でもあるわけだけど、この「交響的大蛇」は取っつきが悪いのです。
 平面的に拡がりながらゆっくり盛り上がるブルックナーの曲は長いし、ぶっきらぼうだし、繰り返しが多いし、特にこの曲は金管の活躍が目立って、そしてブルックナーではいつも語られる宗教性なんて物を持ち出されると、いつもは宗教を意識しない日本人にはなおさらのこと敷居が高くなってしまう。そんなブルックナーの曲を「逍遙」と言った人もいたけど、逍遙なんて言ったって。。。。
 今から30年くらい前の話、ブルックナーの交響曲全集がヨッフムがバイエルンの放送局のオケとベルリン・フィルで入れたものと、ウィーン・フィルのブルックナー全集というのがあって、そんなのは一人の指揮者ではなく、一つのオケをいろいろな人が振ったという異色のコンセプト、あとはカラヤンとバレンボイムが進行中で、今では結構普通に手に入るハイティンクのものが廃盤、あ、そうそう、朝比奈さんも出していた。カタログにはそれくらいしかなかったんじゃないかな。
 なにせ、4番と7番、9番、それに8番あたりまで語れたらもうブルックナーの専門家と言われそうな時代だった時にU野さんという人がブルックナーの魅力をさんざん書きまくり、語りまくり、クナッパーツブッシュやシューリヒトなんて薦めたもんだから、録音は悪いし、語り口は古くさいし、とにかく彼の薦めるブルックナーは私には暇だった。

 でも実際、ブルックナーの交響曲の魅力は、まさにこの取っつきにくさの原因かも知れない「長さ」、そしてやたらと多い「繰り返し」、そして「リズム」。
 「原始霧」から始まる音楽は、大概は多少厳しさや聳えるような雰囲気を出しているのは、神奈川フィルの前音楽監督のシュナイトさんが「ブルックナーはアンスフェルデンと言うところで生まれて、アルプスの見えるところだ。そのアルプスは日本のような優しい森ではなく峻厳な岩や氷がむき出しの冷たいものである」と言うようなことをブルックナーのコンサートで言っていたけども、それも影響しているのかも知れない。
 主題の提示からして、というか初めのメロディーからして既にたたずんだ森の中の風で次々表情を変える木々や草花のようにのように微妙に、そして絶妙に休むことなく表情を変えていく。実際、交響曲第4番で私が初めて感動した演奏のブロムシュテットとドレスデンのシュターツカペレの演奏は第2主題が出てくるまで様々な音色の変化があって、それがまた聴き惚れるのだけど、曲が始まって第2主題にたどり着くまで1分30秒くらいかかっている。15秒のCMが6本終わる長さ。でもそこにはたっぷりと情景が詰まっていてそれはもう。
 そして山々に響く木霊のように、またベートーヴェンの「田園」の、小林研一郎が言うところの果てしなく続く田園風景のような短いフレーズの繰り返しが、時に原始的な神秘を感じさせて、また違う場面では幸福な景色の雄大さを、またあるときは、土俗的な力強さになる。
 初めて聴けば、次々変化する長大な音楽は、初めて登る山の登山のような苦痛と息切れを感じるかも知れないけども、二度目の登山は一回目では気付かなかった様々な絶景に目を奪われることになる。これこそまさにブルックナーの魅力11曲あるブルックナーの交響曲はブルックナー11名山の登山を楽しめるというわけ。
 様々な場面で宇宙の鳴動のような分厚いオーケストラの全奏やスペクタキュラーな音楽の展開は、これはもう神々しさまで感じてしまう。
 人々が、連休にはこぞって高原の温泉付きの保養地に出かけるように、ブルックナーに開眼した人はブルックナーの音楽を、響きを欲しくなってしまう。
 フーゴー・ヴォルフなんて「ブルックナーの交響曲は、どちらかといえば美的価値の低いような作品であっても、それはチンボラソ山(海抜ではエベレストよりも高い山、すなわち世界一)のごとくであり、それに比べればブラームスの交響曲などモグラの盛り土に等しい」なんて言っている。
 でも、ブラームスのように緻密な部品を組み合わせたような技とベートーヴェン以来の、恐らくは「田園」ではなく「運命」の伝統を融合させたレンガ造りのドッシリとした建物のような音楽を作るブラームスには、長く、微妙な変化でベートーヴェンの「田園」の第1楽章のような短いフレーズの繰り返しがあって、そしてフレーズがウネウネうねっているようなブルックナーの音楽はまさに「交響的大蛇」であったろうと思う事はおおよそ私には想像に難くなく、うまいことを言うなと。
 そんなわけで、ブルックナーは、楽曲分析なんて面白そうで、やはりそれなりにブルックナーの霊感をより身近に感じることができるのだろうと思うけど、この曲も含めて大自然の中のように聴き所が延々続くブルックナーには、アルプスの登山で、「この山々はアフリカ大陸がヨーロッパ大陸へ衝突したことで、白亜紀にテーチス海で堆積した地層が圧縮され盛り上がって出来た」なんてことを考えながら、足下の岩肌や自生する植物を採取観察しながら上るのも一興ではあるけども、純粋に景色を楽しんではどうだろう。
 この曲は、聴けば聴くほどアルプスの大自然の中にたたずむ古城や教会などが、まるでメルヘンの絵本をめくるように現れる気分になってくる。
 実際、萌える木々の緑のような分厚い弦に、聳える稜線のような金管楽器に打楽器。そして鳥のさえずりのような木管楽器、「神奈川フィルの音楽案内」で前ヴィオラの首席の柳瀬さんが言っているように、第2楽章のヴィオラの歌う旋律のロマンティックで美しいことといったら。

 この曲の出会いは実はベームとウィーン・フィルの録音だった、件のU野さんが「本当は別の人がいいけど、録音もいいし、これも結構聴けるよ」的な推薦をしていたので購入、でもこのぶっきらぼうな取っつきにくさに交響曲第4番「ロマンティック」山は遭難の憂き目に遭ったわけで、その後にU野さんのミソクソに言うカラヤンも途中で遭難、ハイティンクもケンペもダメで、クーベリックもなんだかのびきったラーメンのよう。メータはロスがスター・ウォーズ的な音がして登山の気力をなくしてしまった。(これらは今聴くとなかなかなんだけどね)
 で、その時出たのがこのブロムシュテット盤。冒頭から美しかった、そして雄大でスマートで、神秘的で。これで一発開眼した私は、その数年後にこのコンビの解消直前か解消直後に来日したコンサートで金管の強奏に決して負けない、それこそオルガンのペダルのような分厚く圧倒的に響く弦の威力と凄い音量でありながら決して瑞々しいニュアンスを失わない管楽器群にすっかり魂を奪われて、4楽章の最後で感動のあまり本当に震えが来て、目眩がして、不覚にも演奏直後に真っ先に、いの一番に手を叩くという失態をした苦い経験があって、それ以来この演奏で「ロマンティック」山制覇をした私はその後なんどこの山に登った事だろう。
 正直に告白すると、今でもこの曲の録音では、たとえブロムシュテットゲヴァントハウスでより深い演奏をしようが、サンフランシスコでスペクタキュラーな演奏をしようが、なんと言ってもオケの威力が絶大なこの演奏が私の「オンリー・ワン」であり続けておるのです。やっぱりブルックナーは景色がよくないと。

 ところで、この曲に関してブルックナーは言っている。

 「中世の町-暁の時刻-朝を告げる合図が町の塔からひびいてくる。城門はあけられ,立派な馬にまたがって騎士たちは,野外へと駆って出る。美しい森が彼らを受け入れ,森はささやき鳥は歌う,みごとなロマンティックな情景である」

 と言うことは大自然に囲まれた高原ではなく、中世ヨーロッパの城塞都市ではないか。
 そして昨今驚いたことに、この曲の作曲者の意向を無視して響きをワーグナー風に変えて、大胆なカットを施してある、噴飯物の改悪版であるとされていた「シャルク・レーヴェ改訂版」がベンジャミン・コースヴェットという学者の話ではブルックナー本人の全面監修の元に行われていて、そこにはブルックナーの意思が確かに反映されていたと言うことも判明してきて、と言うことは、今まで私がこれこそブルックナー本人の最終的な意思に一番近いと思っていた、たぶん一番録音が多い版であろうノヴァーク版第2稿1878/80年版が実はブルックナーの最終的な意思とは違うと言うことになる。
 この曲の大成功した初演時の楽譜はこの噴飯物の改悪版であるとされていた「シャルク・レーヴェ改訂版」だった。ワーグナーの「パルシファル」初演の前年、死の2年前、ブラームス第4交響曲の3年前の話。
 他の交響曲から感じるようなブルックナーらしさを感じるのはブロムシュテットがこの録音で演奏している「ノヴァーク版第2稿1878/80年版」だと思うのだけど、でも試しに久々に「シャルク・レーヴェ改訂版」のクナッパーツブッシュを聴いてみたら響きがやっぱり違うけども、ブルックナーのイメージの言葉に近いのはこっちかななんて思ったりして。
c0021859_2224302.gif で、そのあたりを今度「シャルク・レーヴェ改訂版」をもう少し整理改訂した「コースヴェット版」の演奏もヴァンスかとミネソタ管弦楽団で聴いてみたらば、これがどうもクナッパーツブッシュには到底及ばないスケールの小ささは、U野さんの言いたいことは今頃になってわかる。 

 でも、こんなふうに、ブルックナーの曲は幾つかの楽譜が出版されていて微妙に、また大胆に違っていて、登山道の整備状態の変遷で魅力が失われたり、新たな発見があったりというのはますます登山に似ていて、1曲で2度も3度も楽しかったりする。
 もう10年以上前になるはずだけど、前音楽監督のシュナイト指揮でこの曲の超名演をした神奈川フィルなんだけど、シュナイトさんの演奏が、確か公式プログラムには「ハース版」と書かれていたのだけど、「シャルク・レーヴェ改訂版」のアイディアも多少聴き取れたりして、それがあの演奏を好きになれなかった理由だったんだけど、今になってもう一回聴きたいけどそれはかなわないんだよね。

by yurikamome122 | 2015-09-16 22:29 | 今日の1曲 | Comments(2)

石丸寛を覚えています?。ブラームスの交響曲第4番の演奏から

c0021859_16554492.jpg 石丸寛なんて言う指揮者、知っている人はどれくらいいるのだろう。ここ数年話題に上ったのを聞いたことがない気がする。
 その人の指揮したブラームスの交響曲第4番は、聴く度になんだかわからないけど、私自身の理性に反して胸の奥からこみ上げる物が、そして目の前がにじんでくる演奏。

 ブラームスの第4交響曲は、この曲を作曲された頃はあまり用いられない教会音楽の音階や終楽章で、シャコンヌというバロックの手法を用い、晩年の達観した枯淡の境地をにじませる音楽であるとか(この時期、メンデルスゾーンのバッハ再発見に端を発するバッハ回帰の嵐が吹き荒れていたときと言うのは注意する必要があるかもしれない。ブラームス自身、クララ・シューマンから送られたバッハ全集の第1巻から熱心に研究し、現在ウィーン楽友協会の資料室に残っている彼が用いたバッハ全集の楽譜には相当量の書き込みがされているのはその様子がうかがえる)、作曲されたその時期に友人知人を立て続けに失った、その寂しさの中で作曲されたので、その境地が現れているとか、大体よく語られるこの曲のプロフィールなのだと思う。
 でも本当にそうなのだろうか?。どうもこのステレオタイプの解説は、わかったようで実は全然わからない。だいいちこの曲のあとに作曲されたヴァイオリン・ソナタなどは年齢相応の達観は感じるにしても結構情熱的だったりするじゃないか。
 そう思ってブラームスの交響曲の足跡をたどってみると、長い年月をかけて作曲された第1交響曲、その翌年に一気に書き上げた第2交響曲、でも、第3交響曲まではそれから6,7年のブランクを空けて数ヶ月で一気に書き上げた第3交響曲に、その直後に着手されて翌々年の52才で発表された第4交響曲は勿論最後の交響曲なのだけども、まだ精力的に活動をしていた初老のブラームスにはその後10年以上の時間が残されていた。
 そして、時系列で言うと第4交響曲のプロフィールとしてよく言われる親しい人を立て続けに失ったのは、実はあの伸びやかな第3交響曲の前になる。(ちなみにこの第3交響曲の作曲はライン河に面した美しい保養地、ヴィスバーデンで行われ、ブラームスはヘルミーネ・シュピースという23才年下のコントラアルトの歌手の魅力に惹かれ、彼女もまんざらでもなく、ブラームスも結婚相手として意識するほどまで発展した。そんな気分があってかあの伸びやかさにヒロイズム)

 ところで、この頃は大変羨ましいことに「絶対音楽」と「標題音楽」というとてもロマン的で魅力的な論争がドイツ、オーストリアの楽壇では盛んで、ブラームスは絶対音楽派の旗手、ワーグナーが表題音楽派の旗印として対立していたというのは割と有名な話で、とはいえ、ブラームスが30歳の時、ウィーンのジングアカデミーの指揮者に呼ばれた頃、そのウィーンでは、ワーグナーが恐らくは「トリスタンとイゾルデ」が様々なトラブルから上演がキャンセルになった代わりに「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ワルキューレ」、「ラインの黄金」、「ジークフリート」のそれぞれ名シーンを併せて上演するコンサートのために来訪中で、そのパート譜を作る作業に喜々として参加している。結構ワーグナーを好意的に意識していた時期がブラームスにもあったわけだ。そして徐々に批判的になって行きつつもワーグナーの新作は上演の度に見に行っていたようだ。
 この二人の関係に興味津々なのは、ワーグナーがプロテスタントのコラールを使用しドイツの愛国心にあふれた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を発表した翌年にブラームスはルター訳のドイツ語聖書からテキストを得た「ドイツ・レクイエム」を、ワーグナーが「ニーベルングの指環」を数十年かけて完成、上演すれば、同年にやはり20年以上かけた交響曲第1番をブラームスは発表している。キリスト教的救済をテーマにした「パルシファル」をワーグナーが上演すれば、その翌年にブラームスはヒロイックな交響曲第3番を発表。そしてその年にワーグナーが死去してブラームスは交響曲第4番。
 なんて言うのも先のプロフィールに加えても良さそうなくらいよく符合しているのだけどどうだろう。と言うのは、ワーグナーの死去に際して、ブラームスが追悼のために月桂冠を贈っている。それに対してワーグナーが大指揮者ハンス・フォン・ビューローから寝取った奥さんのコジマが対応に戸惑ったと言う話もある。
 この曲のプロフィールにといえば、 イケベエこと池辺晋一郎がバッハやモーツァルトを、勿論シューマンもだけど激しく意識するブラームスが作った4つの交響曲の調性が、それぞれハ長調‐ニ長調‐ヘ長調‐ホ短調、C-D-F-Eであるのがモーツァルトの最後の第41交響曲「ジュピター」の第4楽章のジュピター音型で、シューマンの4つの交響曲もそれぞれの1度下の音でB-C-Es-Dであると言うのは偶然ではないに違いないということを言っている。とすれば、ブラームス自身この交響曲を最後だと思って作っていたのだろうか。

 そんなわけで、同時代に活躍したワーグナーやマーラーのように大言壮語で天地を語でもなく、ブルックナーのように宗教に軸足を置くでもなく(ブラームス自身、プロテスタントでありつつ「自分は無宗教」などと言っていたようだ)あくまで人間目線での音楽だった。
 詰まるところ、恐らくはこの曲に対してよく言われるようなエピソードは、多少なりとも作品に影響しているかもしれないけども、たぶん作曲の直接の動機としてはあまり的を射ていない気がしないでもない。
 先に紹介したこの頃定期的に出版されていたバッハ全集で、この曲をまさに作曲していたときに、終楽章のパッサカリアで使った動機の元ネタであるバッハのカンタータ1 5 0 番 「 主よ 、 われ汝を求む 」が掲載された号が出版された時期と重なっているのは興味深くもある。
 というわけで、むしろこの曲は、まさにこの曲を作曲したその当時のブラームスの作曲技法の粋を集めたブラームスの知性の結集で、ブラームスが自分のその時持っていた作曲技法を最大限に発揮するため、いや発揮した結果この曲になったという方が当たっている気がしなくもない。

 というわけで、この曲を理解しようと思うなら、ここで必要なのはたぶん楽曲分析なのかもしれない。
 数あるこの曲に関する言及で、多くが語られているので、しかも文章だけでここに記するのは恐らくは意味を持つとも思えないのだけども、個人的にこの曲の核心と信じて疑わない第4楽章のみを若干言及させてもらうと、以下のようになる。

 先ずは全体的な構成として、この曲の第1楽章から「第1楽章・急-第2楽章・緩-第3楽章(スケルツォ)急-第4楽章・急」という楽章構成のこの曲で、実は第4楽章の構成が「急(提示部、テーマの提示から第11変奏までが第1楽章に相当)-緩(木管楽器で穏やかに奏でられる寂寥感味満ちた部分、第4楽章の中ではやはり提示部となり第12変奏から第15変奏までが第2楽章に相当)-急(スケルツォに相当する、静かなところから突然強烈にパッサカリアのテーマが出てくるので再現部かと勘違いしやすいけども第4楽章の中では展開部に当たる第16変奏から第23変奏)-急(第4楽章の中では再現部に当たる第24変奏から第30変奏)-終結部と言うように交響曲の中に第4楽章だけで交響曲の内容を含む「入れ子」になっている。
 この楽章は私なんぞがどうこう言うのは大変僭越なのだけども、どこをとっても素晴らしく緻密。
 でも圧巻は展開部の途中テンポの速い静かな、弱音で弦と木管の刻みで曲が進んだ直後、フォルテの指示がある展開部の終結の第23変奏以降、運命の怒濤の中で冷酷に鳴り響くホルンのパッサカリアのテーマの絶望的な響き、そして第24変奏の再現部に入りティンパニの強打と弦楽器、金管楽器によるパッサカリアのテーマのどうにもならない絶望的な、圧倒的な運命の鉄拳。そして第25変奏以降の運命がガラガラと音を立てて崩れていきそうな弦のトレモロ、そして第27変奏の全盛期を回想するかのような優しい響きには第1楽章のあのため息が盛り込まれている。
 そして更に様々変奏をしながら、今日は終結に向かい短調のまま曲を閉じる。

 そんなふうに、感情移入をできるだけ避けて、この曲を音や響きの綾、流れ、変幻自在な表情の手練手管を味わい、どっぷり浸かってみようとこの曲を感じていながら、でもこの曲から感じる強烈な加齢臭と情熱を漲らせた怒りすら感じるような無念さを感じずにはいられない演奏が自分の中ではこの曲のオンリー・ワンの演奏になっている。それがこの石丸寛指揮、九州交響楽団の演奏。
 専門家ではない私には、結構表情が恣意的な味付けがないでは無い気がするこの演奏が、それが全然気に障らないというか、そんなことよりもこの曲を聴いていてもう1楽章の途中から胸が詰まり泣けてくるのはナンなのだろう。
 先に挙げた肝心要の第4楽章のあの部分などはカラヤンがベルリン・フィルと最後に入れたDGの正規版が凄まじさでもパートの音色でも自分には一番しっくりくるのだけど、それでも、ゴールドブレンド・コンサートで日本中のアマオケばかり振っていた(失礼)いまいちスターとは言い難い日本人の指揮者の指揮者が九州のオケを振ったこの演奏は感銘深いのです。
 既に癌に蝕まれて満身創痍の状態で指揮台に上がった演奏会などという話はいくらでもついてくるのだけど、そんなことよりも、ブラームスがその時の作曲技法を全身全霊でつぎ込んだこの曲に、恐らくはブラームスと同じくらいの覚悟でこの曲に立ち向かった演奏なのかも知れない。
 プロの音楽家や評論家ならもっといろいろ書けるのだろうけど、この演奏を聴いて、多々この曲が素晴らしいとしか言えない自分が悔しい、そう思いつつも、この演奏の録音でこの曲が今部屋に満ちて、それを聴いて胸を詰まらせる事ができることに感謝をしないと。

by yurikamome122 | 2015-09-10 16:56 | 今日の1曲 | Comments(0)

ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」をストコフスキー指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団で

c0021859_64837100.jpg どうも軽く見られるフシがある「新世界」、人に言わせると8番の方がいい曲だとか、俗っぽいとか、でもそんなこと言うならマーラーの方がもっと俗っぽいような気もする。
 そんなことよりもドヴォルザークのメロディアスな旋律に様々に絡み合った旋律の綾がきこえてくると、その精緻さに興味が沸いてきて、征爾さん(発売当時、わざわざウィーンの音楽監督になって「新世界」でもなかろうと思った征爾さんの新世界なんだけど、本番での成功は立ち読みした「レコ芸」にも載っていて、ついつい手に取りレジへ)、メータ、カラヤンにジョージ・セル、ブルーノ・ワルター、スイトナー、そしてストコフスキー(90才過ぎてから録音したヤツ、さすがストコフスキーだった)まで一気に聴いてしまった。
 伸び縮みするテンポはストコフスキーが若かった頃は誰でもやってたことなんだろうし、響きを煌びやかに演出する改変なんて、聴き応えありますゼ。第1楽章のコーダの金管はビックリしたり、第4楽章での展開部の思いっきり落ちるテンポに追加されたシンバルはコーダで大活躍、最後、銅鑼の響きが夕暮れのお寺の鐘のように響き、そしてラストの余韻は様々な楽器を重ねてある。
 ショウマンシップややりすぎって言うのは簡単だけど、この曲のツボを押さえてとっても解説的に聴き所を解りやすく、聴き手がポイントを逃さないようにくっふしてあるように思うのだけどな。
 実は個人的に私には「遠きビルに日が落ちて」にきこえる「遠き山に日は落ちて」で有名なこの曲の2楽章は、実は猛烈な鉄道ヲタクであったドヴォルザーク(ドヴォルザークのアレグロはどうも爆走する蒸気機関車を連想するのです)の活躍したニューヨークの息吹を感じ取ったりするのですが、それが合っているかどうかはさておき、誰でも音楽の時間に聴かされたこの曲に関しての解説は大体において以下のようなもの。
 「新世界から」の「から」は当時「新世界」と言われていたアメリカ「から」なんであって、ドヴォルザークがアメリカの学校で教鞭を執る傍ら、故郷に思いを馳せつつ、ドヴォルザークにとっては新しかったアメリカの音楽にインスパイアされて作った、「ドヴォルザークの故郷ボヘミアへの音楽の手紙」。だから、初演当初からアメリカの音楽からの引用があるのではないかという疑惑は持たれていた。が、ドヴォルザーク自身は「アメリカの旋律の精神に従って書いたのは事実だが、そのまま引用はしていない」と言っている。
 というのは、いろいろなところで読んだこともあるだろうし聞いたことがあるよく書かれるこの曲のプロフィールなのです。でもそんなことを言うなら、弦楽四重奏曲「アメリカ」やチェロ協奏曲だって同じ事、この曲がよく聴かれるあまりに総花的な理由として、なんだかよく解ったようで解らない。
 
 で、もっと曲をよく聴き、眺めてみると、それはウケるべくしてウケるワケがだんだんと、ちょっとだけ私にもきこえてきた。
 ドヴォルザークが「新世界から」では、先ず曲の冒頭、第1楽章の序奏はヴィオラとコントラバスの憧れに満ちたチェロのメロディーで聴く人にノスタルジーをかき立て、そしてそれにフルートとオーボエが静かにそれに応え、そして突然のドラマティックな盛り上がりから第1主題を予告しながら序奏のクライマックスを迎え、冒頭に強烈なスフォルツァンドのアクセントの付いた弦のピアニシモのまるで草原を思わせるような静かなトレモロで主部に入り、遠吠えのようなホルンの奏でる第1主題から主部に突入。つまりノスタルジックな導入で思いを馳せながら、突然拡がる草原の大パノラマってワケ。この第1主題がアメリカ的とかチェコの民族的とかいろいろと言われているところ。
 第1楽章が激しく力強く終わったのを受けての第2楽章もここの管楽器群で奏でられる厳かで神秘的な序奏は、激しい第1楽章から第2楽章への橋渡し。これは、この楽章のあの有名なノスタルジーをかき立てる憧れに満ちた主題よりも更に大事な部分。この後続く第3楽章、第4楽章への序奏の意味もある。
 第3楽章での見事にメリハリと歯切れのよく本題へ突入する序奏の後、主題はフルートとオーボエによって奏でられた後、1小節遅れてのクラリネットのエコー、カノンの手法、ノスタルジーをかき立てる。
 そして第4楽章の激しい本題への熱狂を期待させる序奏の後のフルオーケストラの叩き付ける和音の後の力強いトランペットの第1主題、そして全曲でたった一回だけ響くシンバルの後の第2主題の息の長いクラリネットの望郷のメロディー。その後の盛り上がりの行き着く先はふるさとへ帰った喜びに満ちあふれたような盛り上がり。
 そしてその後に展開部ではまるで様々な出来事を回想するかのように前の3つの楽章の主題が回想され、再現部からスケールの大きい集結部のここでも登場する全3楽章の主題を回想しつつ傲然と情熱的に曲を閉じるが、そこに余韻までちゃんと残している。
 ドヴォルザーク自身、前作では採用しなかった前奏をここでは効果的に使っているのは、ウケ狙いなのかどうなのか、そういえば、この曲は8番で採用しなかったハイドン以来の規範的なソナタ形式を採用している。
 そればかりではない、実は各楽章の主題はおよそその登場の前に予告がされていたり、変形があったりして、各楽章それらが有機的に結びつき統一感を出している。
 つまり、もちろんブラームスが羨んだほどのドヴォルザークメロディーが素晴らしいのはに加え、音楽の常套手段を模範的に使いこなした王道の作曲技法による音楽と言うことで、そこに込められたドヴォルザークのインスピレーションが何の障害もなく聴き手にスルリスルリと流れ込むという仕掛けになっているのでありました。

by yurikamome122 | 2015-07-14 06:50 | 今日の1曲 | Comments(0)

アイヴズは楽しくないと。アイヴズ作曲、交響曲第2番をMTT指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団で

c0021859_10385894.jpg 数年前、ヒラリー・ハーンのリサイタルを聴いた。そこで演奏された曲の中にアイヴズのヴァイオリン・ソナタがあった。彼女の演奏するアイヴズは、彼女自身の美貌と知的な佇まいで、超絶技巧を駆使して、パッと聴くと難解に感じるアイヴズは、アイヴズの感じた時代や大自然の風景を大自然そのもののように唐突だったり冗長だったり不可解だったりしながら、でもヒラリー・ハーンの演奏はそれをスカッと鮮やかに私たちの前に拡げて見せてくれた。ヒラリー・ハーンは、知的な演奏とその所作で、まるで私たちに「アイヴズは楽しくないといけないのよ!」と言っているようだった。私も、アイヴズは楽しくないといけないと思う。

 交響曲第2番はアイヴズの入門編で取り上げられる機会も多い曲だと思うのだけど、たとえばリュドヴィク・モルロー指揮、シアトル交響楽団の演奏はライヴ録音のようで、終演後に盛大に拍手とともにブラボーと笑い声が入っている。どう?、本場アメリカ人だって楽しんでるじゃないか。
 アイヴズ自身こう言っている、「この作品は、1890年代のコネチカット州のこの近辺(ダンバリー、レッディング)の民衆の気持ちを音楽的に表現したものである。つまり田舎の民衆の音楽という訳だ。これには当時彼らが歌ったり演奏した曲がいっぱいつまっていて、そのうちの数曲をバッハの旋律と対位法的にからませるのは、粋なジョークみたいなものじゃないか、と考えた」、やっぱりジョークだって。
 この曲を初演したのがバーンスタインというのは有名な話で、アイヴズはというと、なぜか初演には立ち会わず、その放送を聴いていたそうだけど、そのときのバーンスタインの苦労は素人の私でもちょっとは感じる。というのは、あの当時のバーンスタインがマーラーにしたのと同じようなスタンスでアイヴズを演奏している。様々なところを強調して解説的に、「ここはこんなに面白いところがありますよ」、「ほら、ここ、ここ、よく聴いて」、「ここが聴き所、いいかい」みたいに。だから実際に初演に使われた楽譜がバーンスタイン自身の手の入ったものではないにしろ、その演奏解釈というものがあるのなら、「バーンスタインの解釈も、第2楽章や終楽章に致命的なカットを加えたり、アイヴズの速度記号を無視したり、最後の野次るような不協和音を引き伸ばしている」(wikipedia)わけで、それはその後にスタンダードになってしまったフシがあるのは、その時代に録音されたオーマンディーやメータも同様に引き延ばしている。
 テンポ設定も全然違う、バーンスタインもオーマンディーも結構ゆっくり、第5楽章はカットありで9分17秒のバーンスタイン、オーマンディーは10分35秒。でもヤルヴィ指揮デトロイト交響楽団はなんと8分9秒。アイヴズ協会の会長のマイケル・ティルソン・トーマスはアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団との演奏ではカットなしで9分48秒。もっともMTTは途中の「藁の中の七面鳥」のメロディーが伴奏でなるノスタルジックな部分で思いっきりテンポを落としてしみじみやっているので、主部はタイミングで予想するよりも快速で進む。
 そして、「最後の野次るような不協和音」はヤルヴィもMTT もスカッと短く切り上げている。たぶんこっちが本当なんだろうと思う。
アイヴズは(ヒラリー・ハーンと征爾さんのおかげで)個人的に大好きな作曲家なんで、2番も集中的にいっぱい聴いてしまった。バーンスタインはやはり初演者の責任を十分に果たすべく、この曲のポイントを思いっきりロマンティックに誇張して教えてくれた。
 でも今この曲を聴くなら、私が「楽しかった」のはやはりヤルヴィとMTT。ヤルヴィはあの乱痴気騒ぎの第5楽章がお見事に整理されて、そのわかりやすさはまるでディズニー映画のよう。でもロマンティックで心にしみる、そしていっくら楽しいとは言え、やはりアメリカ的知性を感じるのはMTTはアメリカ人だった。

 アイヴズが音楽家の道を選ばず、保険会社の経営者として辣腕を振るいつつも、趣味で作曲を続けていたということ、作品はイェール大学在学中から40代中頃までに集中していること、またそんな経緯から、実はあまり実際に演奏することなど考えて作曲をしていなかった。だからその楽譜にはいろいろと支離滅裂なところや意味不明なところ、演奏不可能な点がある。さらには改訂癖で後世が版の問題で悩んで迷惑しているブルックナー以上に自作に手を入れて、彼自身どのヴァージョンが最終なのか、何番目のバージョンなのか解らないこともあった(実際、出版社から出版されるに当たり、そんないい加減なことはないと思うのだけど)なんて言うことはアイヴズのプロフィールとしてはよく聞かれる話。
 今回演奏されるこの交響曲第2番から4年後に作曲された第3番は、グスタフ・マーラーの目にとまり、マーラーはこの曲をヨーロッパで演奏しようとしたが、マーラーの死去によりそれはかなわなかったなんて話もある。
 また、アイヴズという人は、かなり奇異な曲を書いた人のような印象があるのかもしれない。指揮者が3人も必要な曲を作ってみたり、街角からきこえてくる様々な音楽をいっぺんに曲の中にブチ込んで、それらをいっぺんに聴かせるもんだから、聴いてるこっちは何を聴かされているのかよくわからない。
 もっとも、街角の音楽や様々な民族的素材を音楽に組み入れるのは、バルトークなんかもやっていて、もっと古くはベートーヴェンだってやってるし、それほど実はビックリするような手法ではないのだけど、ごった煮を作るような無造作に感じるあたりがこの人らしいところ。アメリカの風景がいっぱい詰まっている、そしてアメリカ的な自由をその音楽から感じてしまう。

 この曲が作られたアイヴズがまだ23歳のイェール大学に在学していた頃のアメリカはというと、南北戦争が終わって、保護主義工業先進側の北軍の勝利、リンカーンの奴隷解放がアイヴズの生まれる約11年前という時代、ヨーロッパの様々ないざこざもあって、アメリカは独立時の13州から急速に領土を拡げた。
 大陸横断鉄道も開通して先住民のインディアンを迫害しながら西部開拓時代が始まり、そのまっただ中の1874年にアイヴズはアメリカの独立時の13州のうちの一つのコネチカット州のダンベリーと言う町で生まれた。
 アイヴズ16歳の時にインディアンの制圧を完了し、西部開拓時代が終わりを迎え、その頃はトーマス・エジソンなども活躍していた第2次産業革命のアメリカは経済的にもめざましく発展し、景観としては随所に田舎の風情や情緒を残しながらも、近代化、工業化も進み、未だに国王や貴族たちがいざこざを起こしているヨーロッパを横目に、自由、平等の精神に法り、様々な問題を抱えながらも発展を続け、いよいよ海外へ目を向ける。アメリカの帝国主義時代の幕開けとなる。
 この曲が作曲された頃は、アメリカはスペイン領だったキューバ独立の動きに便乗して、スペインと戦争を起こし、これに勝利してキューバの独立をスペインに認めさせ、またスペイン領だったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカが買収をする。そしてこの時期にハワイも併合してしまうという覇権の始まりの頃。
 で、この曲が作られた頃アイヴズが住んでいたコネチカット州はというと、紡績の町で、とても自然に恵まれた四季の美しいところのようだ。
 そんな風景がこの「何でもござれ」の交響曲第2番には詰まっている。そして最後、素っ頓狂な不協和音が最後の最後に聴き手は足をすくわれる。

 問題はその(不協和音での終わり方)あたりだと思うのですよ。いろいろなところでもそうなのだけど、アイヴズの問題提起はここではないのかと。
 「アメリカ・ルネッサンス」というのがあって、それはアメリカに移り住んだイギリス人の、そのバックボーンである文化の呪縛から離れようとした、アメリカの開拓時代から南北戦争へと続く、そのあたりで発生したアメリカならではの文化の曙であった。イヴズはその影響を多分に受けたのは、マサチューセッツ州に近いコネチカット州の出身でることも関連しているのかもしれない。
 アイヴズがこの交響曲を作曲してから5年後の28歳の時にピアノ・ソナタ第2番を作曲していて、そのタイトルが「マサチューセッツ州コンコード 1840-60年」、通称「コンコード・ソナタ」というもの。この「コンコード・ソナタ」にはやはり様々な実験がよく知られた大作曲家の引用などを散りばめて作られている。
 ところで、このタイトルになっているマサチューセッツ州コンコードの1840-60年は何があったかと言えば、もともとアメリカ・ルネサンスの作家たちゆかりの場所で、このコンコードで超越主義運動が興り、アイヴズはそれに着想を得てこの曲の作曲を行ったとのこと。
 そのアメリカ・ルネサンスの代表的な思想家で、「コンコード賛歌」というものを書いたラルフ・ウォルドー・エマソンの岩波文庫にある講演会の記録の中から一部を引用。

「私たちはあまりにも長くヨーロッパの優雅な詩神に耳をあずけすぎました。アメリカの自由人の精神は、臆病で、模倣好きで、覇気に欠けるのではないかと、すでに疑われ始めています」
「兄弟たち、そして友人の皆さん――願わくは、わたしたちの意見はそうあってほしくありません。自分自身の足で歩きましょう。自分自身の手で仕事をしましょう。自分自身の心を語りましょう」
「人間に対する畏れ、人間に寄せる愛こそ、いっさいをとりまく防壁、喜びの花輪でなければなりません。人間寄りつどうひとつの国が初めて出現することになるでしょう。人間ひとりびとりが、万民にいのちを吹き込む『神聖な愛』によって、自分もいのちを吹き込まれていると信じるからです」

そしてアイヴズは言っている。

 「なぜ調性そのものを永久に放棄しなくてはならないのか、私には分からない。なぜいつも調性がなくてはいけないのか、私には分からない」と。

by yurikamome122 | 2015-07-10 10:39 | 今日の1曲 | Comments(2)

サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団で、ハイドン作曲、交響曲第100番「軍隊」

c0021859_6352852.jpg サヴァリッシュのハイドンなんて誰も褒めないのだけど、あの端正な姿勢で、知的な顔立ちとつぶらな眼鏡の奥の鋭い瞳の校長先生のようないでたちの彼は、以前は何を聴いても音楽がホッとしない結構強引な印象を受けて、このハイドンなどは、あの頃自分のハイドンの印象は、「怖くないグリム童話」のような多少のメルヘンと、甘いミルクたっぷりのビズケットのような印象があったような気がするのだけど、サヴァリッシュのハイドンのリズムは強引に、「楽しそうに強制されて強引に」スイングしていたような、そんな違和感を持っていたのだけど、どういうわけか、今ではもっと乱暴な演奏のハイドンばかり聴かされているせいか、サヴァリッシュの強引さをこの録音から今は聴き取れていないのは何でなのか自分でもよくわからないのです。
 テニスボールが弾むような彼の手の動きと、マヨネーズをこねるような左手にオーケストラが一糸乱れずコントロールされている様が聴き取れて、しかもその弾むようなリズムに堂々としたベースの響きが知的な遊びがこぼれ落ちるハイドンののこの曲の、ハイドンらしい惚けた感じと下品にならない、文部科学省御用達の典型のようなところのバランスした、そう、このバランス感覚。悪意とユーモアのバランス、下品と上品のバランス、しなやかさと過激さのバランス。サヴァリッシュのコントロールが最高にニクいと思わせるところ。
 そして、ウィーン交響楽団の魅力的な事と言ったら。この頃のウィーン・フィルの魅力的なことは格別なのだけど、よりスタンダードなウィーン風がハイドンには心地よくて、ウィーン・フィルほど個性が強くなく、そしてフェロモンも少なく、その分清涼で構成感があって、このオケも全然イケてる。
 この曲ではこの当時1300円で買ったこの演奏が個人的には一番しっくりくるのです。

 とはいえ、ハイドンがこんなに好きになったのはクラシックを聴き始めてもうかれこれ40年くらい経つけど、ここ20年と言ったところ。ハイドンはたとえばベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーや今ではマーラー、ブルックナーなんかよりも聴いていてつまらないというか、そう思っていたのですよ。
 まぁ、それは、当然作られた時代からして曲の目的がルールに従いつつもウィットで知的好奇心をそそるような貴族たちの知的なエンターテイメントとしての役割というか目的というか、ロマンは以降の一般民衆を相手に大見得切って人をうならせたり、泣き節で人を泣かせたりするのとは違うから、聴く人、その対象にする聴衆が違うからなわけで、だから当然マーラーやブルックナーのように聴かれたらたまらないわけで、ハイドンが生きた時代と今私たちが生きる現代の違いがそこにはあるのだけど。
 でも、ハイドンの頃のそんな音楽の語法が耳にきこえてくるようになると、ハイドンがとっても身近に感じて、いろいろな楽器のメロディーや表情の対話や戯れるのを楽しんで、ハイドンの粋が心地よくも楽しかったり。

 この「軍隊」だって、以下、独断と偏見で。
 冒頭「レ~ソ」って言う上る音での序奏、「(このクッキー、はい)ど~ぞ」の「ど~ぞ」のところだけのような。ここで私は思うわけです、何を「どうぞ」ナンだろうって。そして、「ほらっ、ほら、ど~ぞ」また声色変えて「どうぞ」って、そして「これは、だから、・・・・」的勿体ぶったり、そして、幾度も「どうぞ」とすすめられて、どうもちゃんと説明をしてくれない音楽は、そのうちに優しかった「どうぞ」が脅すようにすごみを帯びて、またニッコリ微笑んで、「ジャンジャンジャンじゃ~ん」と、ちょっとハイドンに悪戯されたような気にもなりながら、その後に始まるのが軽やかな笛の音による本当の始まり。
 でも、その後もコロコロと軽快に流れながらも、椅子取りゲームでうまく取れた椅子に座ろうと思った瞬間サッと椅子を引かれそうになったりと、思わず転ばないように気が抜けない。
 そんなウッカリするとからかわれた気もしないでもなかったり、悪戯されたような感じだったりゲームのように、どんどん進んでゆくわけで、そのあたりはもう音楽の知性のゲームの様相を呈しているというわけで、これにはまるともうハイドンの虜。

 ところで、「軍隊」の名前の由来はと言えば、それはもちろんそこらでこの曲の解説の定番のようによく書いてあるのだけど、その軍楽隊に関して少々。
 ハイドンが活躍した18世紀、ヨーロッパでは「テュルクリ」と呼ばれるトルコ趣味がはやったわけで、これが広範に及び、トルコ風ファッション、音楽、コーヒー、アラビアンナイトなど大変な流行をしたらしい。たとえばモーツァルトやベートーヴェンも「トルコ行進曲」、モーツァルトはオペラなんかでもトルコが出てくるのはご承知の通り
ハイドンもその流行を取り入れたワケなのだけど、。
 これはオスマントルコが西方へ侵攻し、15世紀半ばにはバルカン半島一帯を、16世紀には中央ヨーロッパ、北アフリカを掌握。そして1529年、1683年と二度にわたりウィーンを包囲し、ヨーロッパに「オスマンの衝撃」をもたらすワケです。
 火砲の扱いに習熟し一糸乱れず行動するオスマントルコ軍とそれにともなった「メヘテル」と言われる音楽は、ヨーロッパの人々に恐れられ、そしてエキゾチックな趣味と響きは興味の対象となり、この「メテヘル」が今日の、そこいらでよく演奏される行進曲の基になったと言われている。
 そんなわけで、この音楽は次第にヨーロッパ各国の宮廷や軍楽に取り込まれてゆくことになった。

 ハイドンは「テュルクリ」全盛の1761年、29歳の時から20年以上にわたり奉職していたヨーロッパ随一と言われたエステルハージ家で、代替わりによる経費節減リストラのため、オーケストラの大幅人員削減(ハイドン自身とコンサートマスター他数名を残して全員解雇)で58歳で暇になって、幾つもの転職(と言うか事実上の再就職)の声はかかっていたが、楽団員同士のいざこざに頭を痛めながらも当時ヨーロッパで一番と言われたエステルハージ後としてはどれもあまり魅力的に感じなかった。
 そんな彼の元に、「ハイドン先生、私はロンドンのザロモンでございます。お迎えに上がりました」とやってきたヨハン・ペーター・ザーロモンの非常識に破格の待遇のロンドン招聘の話に乗るわけで、モーツァルトの「先生、あなたは年を取り過ぎています」と言う大反対に「イヤイヤ、私はまだ若いから大丈夫」と言って、自分を若いと思っている初老のハイドンが渡英をすることになり、結果後世はその初老の冒険心の恩恵でこの交響曲を含むザロモン・セットやオラトリオ「天地創造」などの名作を今でも楽しめることになるわけだけど、(モーツァルトは、ハイドンにこの後会うことはなかった。ハイドンが戻る前に亡くなってしまった)
 おそらくはこれらはよく聞くこの曲の話で音楽に時間にも習った気がする。(ザロモンというのは、フェリックス・メンデルスゾーンの母方の親戚という話は、関係ないからたぶんあまり話されないだろう)

 ところでそのロンドンの成功には、たぶんハイドンやザロモンが意図したわけではないけども、実はちゃんと下準備ができていた。
 当時のロンドンは産業革命による恩恵で豊かだった。ヘンデルの前例があるように、音楽家には大変に魅力的だったらしいく、そこにバッハの息子のヨハン・クリスチャン・バッハもロンドンで大活躍をしいて、そのときのクリスチャン・バッハの演奏会でハイドンの作品を取り上げて、大変に評判がよかった。
 そんな状況があってこそ、ハイドン本人の登場は大歓迎を受けた、当然この楽旅は大成功だった。(但し、演奏中「しゃべる」、「眠る」、「笑う」のロンドンの聴衆のマナーの悪さには恐れ入っていたようだ)
 これに気をよくして2度目の渡英が62歳の時。この時に今回演奏されるこの曲が作られた。前回の反省も踏まえ、今回のシリースは曲そのものをやや解りやすくしてあるのだそうで、いやいや、そんなことはない。
 初めに記したようにこんな子供の歌のような親しみやすさの中に様々なことが起きていたわけだった。これにハマるともうハイドン大好き。

by yurikamome122 | 2015-07-05 06:36 | 今日の1曲 | Comments(0)

ジュリーニ指揮、バイエルン放送交響楽団でラヴェル作曲、「マ・メール・ロワ」とこの曲の周辺

c0021859_176544.jpg ミュンヘンの放送局のオーケストラから、ジュリーニが聴かせたマ・メール・ロワは印象的な演奏だと思う。
 会場にフワッと拡がる幻想は精緻に作られたラヴェルの世界そのものかもしれないけど、でもスピーカーを通してでもなお精緻さなど感じさせない、朝靄のように漂う情景と、誰もが持っていたような純粋で澄み渡った感情と、それをなんの疑いもなくあたりにまき散らしていたあの頃の切ない想い出。
 音楽から感じる暖かさよりも、胸の奥からわき出る押さえることのできない何か。音楽を聴いている今この時、幼少の頃に戻った

 ラヴェルは、生まれた年は40年もサン=サーンスの方が早いけど、どちらも1800年代の後半から1900年代の前半に活躍したフランスの作曲家。
 また、どちらもフランスの新古典主義の作曲家で、シニカルな態度を露わにする皮肉屋と言うのも両者共通。また、両者とも先進性のせいかどうか、当時のアカデミズムの審査によるローマ賞には縁がなかった。
 ラヴェルは「水の戯れ」で、サン=サーンスは「死の舞踏」で両者ともリストつながり。
 そして、サン=サーンスの弟子のフォーレの弟子がラヴェル、つまりラヴェルはサン=サーンスの孫弟子となるのでした。
 さらに、遊び心に満ちてたラヴェルの「マ・メール・ロワ」と「ピアノ協奏曲」(相撲で舞の海が時々披露した「猫だまし」よろしく初っぱなパチンと張り手一発、その後も違う調性の同時進行やポリリズムやブルーノートなどなど、技のデパートの面目躍如。しかしながらラヴェル自身「モーツァルトやサン=サーンスと同じような美意識」に基づいて作曲した」と言っている)
 サン=サーンスも「動物の謝肉祭」という遊び心を示しているけども。

 「マ・メール・ロワ」とは「マザー・グース」の事で、でも「ロンドン橋落ちた」なんかで有名な「マザー・グースの歌」ではなく、「赤ずきん」「シンデレラ」などの作者のフランスの物語作家のシャルル・ペローのおとぎ話集の「ロアお母さんの物語」(マ・メール・ロワ)で、それを英語直訳したのが「マザー・グース」。
 マザー・グースよりマ・メール・ロワの方が年代的にも本家本元で、後のグリム童話にも影響を与えたと言われているとか、ラヴェルのマ・メール・ロワはペローの童話集から題名と物語を採用したけれども、ドーノワ夫人「緑の蛇」より第3曲の「パゴダの女王レドロネット」を、ボーモン夫人の童話集「子供の雑誌」の中の「美女と野獣」を採用したとか、(最後の「妖精の園」はラヴェルの創作)この曲の作曲経緯であるところの、ラヴェルが画家のボナールと友人のゴデヴィスキーを訪ね、ボナールがゴデヴィスキー夫人の肖像画を描いている間に、彼女とその子供2人の子供、ジャンとミミーのためにこの「マ・メール・ロワ」をピアノ連弾曲として書き、この二人の子供に献呈したし、初演もこの二人の子供で行いたかったのだけども、この子らの手に余り1910年の初演は、後に「クープランの墓」を初演するマルグリット・ロンの弟子でパリ音楽院の学生であった2人、当時11歳で後にここの教授となるジャンヌ・ルルーと14歳のジュヌヴィエーヴ・デュロニーが行った事や、こんな私的な作品であったので、一般に聴かれるものではなかったが、1911年にラヴェル自身で管弦楽版に編曲され、その後に芸術劇場の支配人のジャック・ルーシェからの依頼で、1912年に《前奏曲》と《紡ぎ車の踊りと情景》、《間奏曲》を書き加えて管弦楽に編曲し、ラヴェル自身の台本によるバレエ作品として公表、大成功だった。---などというのはもちろんよく知られた話。
 ただ、この曲をよく聴いているうちに、どうしても子供の頃にタイムスリップするこの仕掛けを探ってみたくなった。もちろん私なんぞにラヴェルのインスピレーションの神髄なんか当然感じることなんかできるわけもないのだけど、でもそういう子供のような気持ちにさせるのもこの曲なのだと思う。
 そしたら、当たり前だけど、改めてラヴェルのオーケストレーションは凄かった。

 この曲は劇中劇として物語が進む。
 オリジナルのピアノ版では1曲目の「眠りの森の美女のパヴァーヌ」で王女の「眠り」によって始まったこのおとぎ話の中のおとぎ話は、王子の登場と王女の「目覚め」、すなわち「妖精の園」の壮大なフィナーレによって結ばれる。
 今回演奏されるであろう管弦楽によるバレエ版では、同じ劇中劇の形式をとっているが、ラヴェル自身の台本により、ペロー版「眠りの森の美女」により構成が近づき、また「前奏曲」、「紡車の踊り」を加え、曲順を入れ替え、そして各物語の前に間奏を配置した。
----------------------------------------
前奏曲、第1場「紡ぎ車の踊りと情景」、第2場「眠りの森の美女のパヴァーヌ」

 舞台は妖精の園、お城のファンファーレが遠くきこえる中、紡ぎ車の棘に刺さり100年の眠りに落ちる。そして王子様の手によって目覚めるように魔法をかけられる。なんとか彼女を目覚めさせようとするが、誰も彼女の目を覚ますことができなかった。
 パヴァーヌとはヨーロッパで 16 世紀から 17 世紀初頭にかけて大流行した宮廷舞曲で、17 世紀に入るとやがて消えていった。ゆったりとした二拍子系で曲が進む。
 このゆったりと重々しい雰囲気で静かに始まるメロディーは、聴いていて心地よいエオリア旋法という五音階で書かれていて、なので素朴な印象を持ち、しかも静謐。
 終始ゆったりとp-ppで演奏され、たった一度だけ mf が出てくる以外は常に静けさに包まれている。冒頭のたった一小節の動機から生成され、「ゆりかご」のように繰り返され、同時に四つ以上の音が鳴ることはなく、八分音符以上の早い音符は登場しない。「伴奏の同じ音型の繰り返し」、「親しみやすいメロディー」、「抑揚のないゆったりとした音楽」はすなわち「子守歌」そのもの、簡潔な音楽はまさに静かな「眠り」。

 バレエの舞台では、二人の侍女が王女を寝かせ、ローブを脱いで、仙女ベニーニュに変身した老女は、現れた二人の黒人の子供に王女の眠りを小話でなぐさめるように命じる。
 そして二人の子供は「美女と野獣」「親指小僧」「パゴダの女王レドロネット」の三つの物語をこれから演じる。

第3場.「美女と野獣の対話」

 この曲は物語の原作者ボーモン夫人の「美女と野獣」に沿って作曲されている。「美女の登場」「野獣の登場」『美女と野獣の対話』「二者のワルツ」「魔法と変身」という物語の流れ。
 管弦楽版では場面が変わったことを示すインパクトのある間奏曲の後に、非常に流麗なリディア旋法で書かれた「美女の主題」がお目見えする。
 ppで始まる穏やかなワルツに乗ってクラリネットが「優しく、感情をこめて」(doux et expressif)奏でられる。
 すると非常に短いフェルマータの後に突如グロテスクにコントラファゴットにより低い音で「野獣の主題」が登場する。
 調性感の保たれた優雅な「美女」と、低音域で奏でられることによって非常にグロテスクで調性感が希薄になりリズムもとりずらい「野獣」の2つのテーマが対話を行う。
 野獣が現れた後の「美女の主題」は高い音に寄りがちで、しかも調性的な安定感を失い、そして美女の主題のはるか下方では「野獣の主題」が不気味な上昇をしている。
 二つの主題が同時に奏でられることはほとんどなく、美女が野獣を恐れて「対話」をしていることが表現されている。
 ところが、ffで前半部の頂点が築かれ後半に入ると急速にラレンタンドして初めのテンポに戻り、二つの主題が同時に奏でられる。調性に基づく「美女」の主題と無調的半音階の「野獣」の主題の二つの主題は当然ながら美しく重なることない。
 不器用に音域的に近づいたり、離れたりすることを繰り返しながら音楽はワルツを踊りながら展開し、「野獣」は音域を徐々にあげて速度を速め、逃げる「美女」の主題に迫り、緊迫して早くなり、ついに二つの主題はぶつかり、全休符の完全な静寂に聴衆の耳がひきつけられたのち、幻想的なグリッサンドが現れ、「野獣」に魔法がかかったことが示され、その後、ヴァイオリンのソロの高音域で美しい姿に変身した「野獣」の主題が奏でられ、「美女」の主題も現れると幸福に音楽は主和音で締めくくられめでたしめでたし。

第4場.「親指小僧」

 シャルル・ペローの童話を下敷きにした作品で、貧しさゆえに森に捨てられた小さな少年「おやゆび小僧」は森へ入っていく途中に帰り道がわかるようにパンくずを道に少しずつまいていく。
 この不安な道のり、弦とオーボエなどのよりだんだん伸びてゆく奇妙な変拍子で奏でられるどこまでも続く暗い森の小道。
 森の真ん中で兄弟たちと眠ってしまった「おやゆび小僧」だったが、次の日になってみると、なんとまいておいたパンはみんな鳥が食べてしまった。幻想的な鳥の声がそれを示している。

第5場.「パゴダの女王レドロネット」

 ドーノワ夫人の「緑の蛇」を題材にしたこの曲は、入浴する「パゴダの女王レドロネット」を楽しませるために、男女の首振り人形たちがクルミやアーモンドでできた楽器を使って踊ったり音楽を奏でたりすると言う筋書き。
 中国風の五音音階を基にシロフォンやグロッケン、チェレスタといった「おもちゃ」の楽器が使われている。
 パリ万博でヨーロッパにお目見えしたガムランの影響からか、ピアノの踊り出すような強いリズムなども駆使し、「おもちゃ」という要素に東洋への志向、エキゾティスムを加えることにより「おとぎ話性」を強調し、またフレーズの最後に入るスタッカートなどで、細かく複雑な動きが磁器でできたおもちゃの家臣たちのにぎやかな様子を見事に表現している。
 最後は中国音階に含まれるすべての和音が打ち鳴らされ、にぎやかに終曲となる。

終曲「妖精の園」

 最後の物語が終わると再び遠くで城のファンファーレが響き、フロリーヌ王女の眠る妖精の園では鳥の声が聞こえ、愛の神に連れられて王子が登場する。彼は眠っているフロリーヌを発見する。夜が明けると同時に王女は100年の眠りから目覚め、二人は結ばれ、皆から盛大に祝福される。

 遠くで鳴り響くファンファーレで始まった後、pp で始まった音楽は、まるで母親のお腹の羊水の中を漂うような素朴で安定感と安らぎのあるハ長調で始まる。優しさと感傷的な美しさに満ちて、生まれたばかりの赤ちゃんの皮膚のような気高く繊細で絶妙な上昇と下降を繰り返す。朝焼けを思わせるような凝縮された透明で神秘的な音は、ここでは幾つかの小節を除けば凝縮されて4つの音しか同時に鳴ることはない。
 木霊のような印象的なハープのアルペジオの後、オーケストラたちの天使が舞い降りる中、朝露の輝きのような音色に包まれてヴァイオリンのソロが高域で美しく奏でる。その音色による旋律の後にアルペジオ、高音域の旋律、様々な楽しく美しい思い出が次々あふれ出すように教会旋法、激しい転調、三連符と八分音符の交差、ここで聴き手は優しく抱かれた母親の笑顔とともに幻想的な異次元の世界を感じ、聖域となった幼少の思い出に触れる。
 再びハ長調で満たされた現実へと舞い戻った旋律は徐々に下降したのち、再び上昇をして小さくなりながらリテヌートし、後半部へと入る。まさにこの瞬間 pp で鳴り響く和音の美しさ。
 そして、鐘の鳴り響くさまを思わせる音型が聞えるなか、息の長いクレッシェンドをしながら和音を増やし、日の出のように上昇していき、きらびやかなグリッサンドが激しく駆け巡る頂点では、聴き手は胸の内に湧き上がる間違えなく自分自身の追憶の彼方の甘美な世界の前に立ちすくむ。
 たぶん、私の間近をラヴェルの神髄が通り過ぎた。

 「これは幼少時代の庭であり、人間の心の庭園である。涙を流しながら思い出す使い古した昔のおもちゃ、そこにふれるやいなや壊れてしまうような過去といった、幼少時代のすべての夢幻劇遙」(オリビエ・メシアン)

----------------------------------------

 「お嬢さん、あなたがいずれ素晴らしい名手になり、私が勲章にまみれるか、あるいは誰からも忘れられた頭の固い老いぼれになる頃、あなたはその天分でもって、まさしくそう演奏されるべき解釈で、ある芸術家に、彼の作品のひとつを聴かせた、快い想い出をお持ちになっているでしょう。
 あなたの子どもらしい繊細な「マ・メール・ロワ」の演奏に,千度の感謝を贈ります。」

 初演後にラヴェルがジャンヌ・ルルへ宛てた手紙
 (1910年4月21日)

by yurikamome122 | 2015-06-16 04:06 | 今日の1曲 | Comments(0)

ムッシュ・ジョルジュのサン=サーンスの交響曲第3番と、この曲の周辺

c0021859_544713.gif サン=サーンスのオルガン交響曲と言えば、しゃれたセンスの響きに満ちて、大編成の快感を感じることができる曲として人気曲。
 でも結構録音というと厳しいものがあると思う。演奏のショウピースとしては、最晩年のオーマンディーやバレンボイムあたりが個人的には好きだし、フランス風のしゃれた洗練ではムッシュ・ジョルジュのパリ・コンセルバトワールの演奏はやはり捨てがたい。
 響きが交錯して、それが陰影をもち、そのコントラストと色彩の多彩さ。それでいてどこか洒落たセンスが香水のように漂う。当時のコンセルバトワールのオーケストラの味わいと、ムラの激しいムッシュ・ジョルジュが絶好調バトンを裁いているのは、たまたまこの時オケと馬が合っただけなのかどうなのか。
 とにかく素晴らしくセンスを感じる、ドラマ性も、祈りの気高さも、勝利の輝かしさも、これぞサン=サーンスと思わせる演奏を聴かせてくれる。
 
「リンゴの実が実り、自然に落ちるように」作曲したサン=サーンスは、後期ロマン派の時代に差しかかるまで生きたにもかかわらず、大袈裟に何かを語る音楽は作らなかったと私は思っていた。「朝机に坐って、アイディアが脳裡に浮かんできたとき、私は確かに救済を必要としていない。」とクレンペラーに語ったリヒャルト・シュトラウスのように、悩みや救済から一線を画して曲を作ったであろう事を、彼の作品から感じていた。
 サン=サーンス自身の必然性をもって小川が流れるがごとく作曲された彼の音楽は、そこに「悩み」や「苦しみ」を克服する、「救済」による「祝福」も無い、音楽の「形式」で作られた音楽という印象も、時折そう語られることも多い彼の音楽なのだけれども、そこには作曲者の知性が「自然」に、ごく「自然」にそこに存在するような奥行きを感じることがあるのもまた本当のことだと思う。
 この曲はまさにそんな曲だと思うのです。
 
 生まれた年はベートーヴェンの第9の初演から約10年後、極東の辺境の、ラッパと言えばホラ貝だった日本では老中水野忠邦が天保の改革の真っ最中の1835年、フランス革命の混乱さめやらぬ7月革命から5年後のパリに生まれ、マーラーの死の10年後、第1次世界大戦終結の2年後の1921年(サン=サーンスが生まれたとき、江戸時代のチョンマゲでホラ貝を吹いていた我が国が、大日本帝国海軍の東郷平八郎大将が日本海でバルチック艦隊を破り、また戦勝国にもなり世界の列強8カ国入りした大正10年)まで生きた、長く生きすぎた。
 そのおかげで、若い頃は将来を嘱望されつつも、晩年は「時代遅れ」「過去の人」などとうるさい頑固親父のように敬遠されて、しかも頑固に古典的な枠組みを尊重する作風の作曲家と思われたフシもある。(そんなことはない、酷評したドビュッシーの手法を自作に取り入れたりと、晩年でもわりと先進的であった)
 彼の晩年の時代になると、アイヴズはもうあの指揮者を3人も動員し、音楽と言うよりも雑音と見まがうばかりの第2楽章を持つ交響曲第4番は初演されていたし、ダリウス・ミヨーのような違う拍子がいっぺんに進んでゆくような音楽も聴かされる羽目になった。

 近代フランス音楽の「父」として賞賛される彼は神に祝福され誕生した申し子だった。
生後2か月で、国の役人を勤める父を亡くし、母と叔母に育てられた(モーツァルトのファザコン、メンデルスゾーンのシスコンのように、この2人の女性が彼らにも劣らぬ才能のサン=サーンスをマザコンにし、またマザコンの彼の人生で大きな存在となる。)彼は、ピアニストの叔母の手ほどきでわずか2歳でピアノを弾き、3歳ですでに読み書きができ、曲作りを始め、驚いたことに代数の問題を解いた。そしてラテン語・ギリシア語を読みこなしていた7歳の頃にはそのピアノは演奏会を開くほどの腕前となる。
 当然彼を世間は「モーツァルトに匹敵する神童」と呼んだ。広い世界で人類の長い歴史の中、たまにはこういう人もいる。
 サン=サーンスの神に祝福された才能は音楽に限らず、詩人としても大活躍し、小説を書き、天文学、自然科学、考古学、哲学、民俗学など幅広い分野の著書をいくつも発表して才能のすし詰め状態。

 そして長寿故に長く創作も続けて、息を引き取る直前まで練習に余念がなかった演奏への情熱も燃やしていた。長寿で生涯現役、これに匹敵するのはおそらくハイドンくらいだろうと思う。ハイドンはその創作をたどることで、ハイドンの生涯が音楽の発展とヨーロッパの歴史を反映していた。
 でもハイドンのように宮仕えではなく、「評価の対象になる」「売れる」音楽を書かねばならなかったサン=サーンスは自ずとその反映のされ方が違ってくる。フランス2月革命の後2年後の1850年に15歳で「交響曲イ長調」を書いた彼は、その作品の作風は初期は、ベートーヴェンやシューベルトの影響を随分感じる、独墺の古典派の音楽をフランス的輝きを加えた音楽のようにきこえる。
 メチャクチャピアノは巧かったらしく、ベルリオーズやリストなどから絶賛されて、16歳でオルガニストとしてコンクールに優勝する頃にはもうバリバリ演奏旅行をこなしていた。ピアノストとしても評価を受け、作曲家としても様々な作品を飛ばしていた彼は1852年にローマ賞を狙うも失敗。
 作曲の技法もより熟達し、より彼自身が刻印されたピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲をガンガン連打していた頃の1864年にローマ賞に再度挑戦するがこれも失敗。今日評価され残る作品で、彼が2度もローマ賞を逃した、これだけでも彼が言われるほど保守的な作風でもなく、逆に当時のパリの楽壇には新しすぎた証拠ではないだろうか。 
 少年期はピアノの「神童」と称されたものの、頭のよすぎた彼は、アカデミズムどっぷりで、青年期から中年期はそう売れる作曲家でもなく、フランス作曲家の中でも「反動的な」存在として賛否両論的な評判に晒され、しかも、「動物の謝肉祭」などで同業を皮肉ってみたり、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」などと人を見下す、頭のよい人にありがちな性格や言動も災いした。(それはどうだろうか、そういう側面はあったかもしれないけど、国葬が行われたあたり、煙たがれルどころか、大変愛されていたようだ)

 時は流れて1871年、我が国ではとっくに横浜が開港して、廃藩置県が行われていた年、フランスが普仏戦争敗北後、セザール・フランク、ガブリエル・フォーレなどとともに「国民音楽協会」を発足させて、その創立者メンバーとして存在感を示し活躍した。
 1875年に40歳のマザコンの彼は、突如21歳の年の差婚で弟子の妹で19歳のマリ=ロール・トリュフォと結婚した。(この頃の曲に「ロマンス」なんていう、いかにもの曲も作っている)いくらマザコンでももう母親の重すぎる愛に耐えられなかった。
 しかし、その結婚生活も1878年、彼が43歳の年に、相次いで2ヶ月の間に溺愛した2人の息子を事故と病気で亡くすという不幸が襲い、その悲しみを押し隠し、普段と変わらぬ生活を続け、それがまた世間の批判を買う。悪い評判が彼につけば作品は売れない。
 すると彼は若い奥さんを突然放り投げて母親の元に戻ってしまう。彼もまた弱虫だった。その後正式な離婚手続きはとられることはなかったと言うがどうなのだろう。
 サン=サーンスが「レクイエム」を作曲したのもこの頃で、経緯は全くビジネスなのだけど、その頃に「レクイエム」というのはタイムリーすぎる。
 その翌年カンタータ「竪琴とハープ」を作曲、両曲とも例のあの有名な「怒りの日」の旋律が印象的に使われている。なにがしかの感情が込められていたかもしれない。
 そしてそれからしばらくして、母親とともにいた1886年、この曲が書かれたのは、ロンドンのフィルハーモニー協会で演奏するためで、「渾身の1曲」(本人談)である交響曲第3番が書かれた。
 サン=サーンス自身はどちらかというと無宗教のようだったと言うけど、この曲の中に宗教的な響きを感じてしまうのは私が日本人だからか。例の「怒りの日」のテーマも循環形式で手を変え品を変え幾度も幾度も出てくる。
 この曲のように交響曲でハ短調で始まる曲は、有名どころでもベートーヴェンの「運命」やブラームスの1番とか、ブルックナーの8番、マーラーの2番なんて結構あるんだけど、やはりこれらのように運命に打ち勝つシナリオがこの曲に込められているのではないか。

例えばこんな筋書き、

 第1楽章の第1部、初めから凄い緊張感を感じる響き、幾度も現れる「怒りの日」が惨い運命を思わせて、大胆な転調でそれと戦う。この厳しさに打ち勝とうとする強烈な意志を感じる。
 第1楽章の第2部に入り、オルガンの鳴り響く中、豊かな弦のユニゾンは教会を連想する。トロンボーン、クラリネット、ホルンの響きは戦う戦士の祈り。
 やがて聞こえる低弦のピチカートによる「怒りの日」が聞こえ、2楽章からの戦いの予感をさせながら清澄な祈りが続く。

 第2楽章の第1部は運命の「怒りの日」の断片が怒濤のように攻め込み降り注ぐ。途中で響くコラールは雲間から降り注ぐ光とともに天使が舞い降り祝福をする。
 そして、第2部に入り神の意志を感じるようなオルガンの響き、荘厳な神殿の階段を一歩づつ踏みしめて上るような上昇音階の先にきこえる「怒りの日」が長調に転調して天使が舞うようなピアノ連弾のあそこ。
 そして壮大なオルガンを伴った華麗な響きのあと「怒りの日」を変形した旋律のフーガは喜びに満ちて、展開されて盛り上がり、カッコイイテーマが朗々と鳴り響き華やかな頂点が築かれたあと、再び「怒りの日」が登場するも崩れ落ち、そして輝かしく壮大に、華々しく勝利の上昇音型を轟かせ、運命に果敢に立ち向かいそして克服し、最後、華々しく重厚なハ長調の和音がオルガンとともに響くのでした。

by yurikamome122 | 2015-06-15 05:44 | 今日の1曲 | Comments(0)

レスピーギ作曲、交響詩「ローマの松」をトスカニーニの演奏で

c0021859_17254581.jpg 反ファシズムの象徴としてのトスカニーニは熱烈なムッソリーニ支持者のレスピーギの「ローマ三部作」を一番この曲らしく演奏する一人で、そしてその中でもひょっとしたら最も成功しているのではないかと思ったりする。主義主張の違う思想の支持者が実際にはそんなに関係が悪くなかったというのもなんだか不思議な気がする。
 「新即物主義」と言われ、楽譜の改編など朝飯前(でもなかったようだけど)のロマン主義的な演奏が主流のあの時代、楽譜に忠実をモットーとし(これも実際には言うほどそうでもなかった。口汚く罵ったマーラー改変のスコアで演奏をしたりした)音楽の演奏の改革をしたトスカニーニは、あの時代に現代のピリオド演奏のような衝撃を与えた。
 演奏は前のめりのテンポで輝かしい響きのオーケストラが聴き手の興奮と陶酔の坩堝に巻き込む。
 この演奏でも卓越した表現力のオーケストラを輝かしい音色で歌いに歌わせ、鳴らしに鳴らし、絶妙かつ繊細なデリカシーと圧倒的な音量で、聴き手は、もうその音楽が映し出す情景にただのみ込まれるだけ。そのすさまじさはやはり「指揮者の中の王」(オットー・クレンペラー)であると思う。

 松と言えば松ぼっくり。そして松ぼっくり(pina=ピーニャ、女性名詞)は「繁栄」の象徴。レスピーギは「松」を通してローマの記憶と幻想を呼び起こそうとしたと述べている。
 この「ローマの松」はローマの繁栄の象徴の曲。
 初めに、高音楽器だけできらびやかに始まる音楽は、松のそびえる庭園で遊ぶ子供たち。この部分はイタリアの子供たちの童謡のメロディーからとった。自筆符を見ると6曲書いてあって、そのうち私が判読可能だったのは「ジロジロトンド」と「マダマドレ」の2曲だけだった。ネイティヴならきっと読めたのかもしれないけど私には無理。
その2曲はこちら。

「ローマの松」の冒頭に出てくるやつ
曲名は"Madamadorè"「マダマドレ」


曲名"Giro giro tondo"「ジロジロトンド」


 賑やかな子供の歓声から一転、低音楽器がキリスト教公認前のローマへと誘う。レスピーギは古代の教会旋法とハーモニーを用いて様々な記憶と怨念が渦巻いているであろう洞窟の墓場「カタコンベ」。
 このあたり、「イタリア音楽復古主義」の旗手としての面目躍如。

 次の部分では「人」は登場せずに情景のみの音楽。
 聞こえてくる鳥のさえずり(ここでは「噴水」のように楽器で奏でるのではなく、実際の鳥の声を聴かせる。征爾さんとボストン交響楽団のレコードのライナーには、Gramophone No.R6105と指定していると書いてある。)の中、満月に浮かぶ松。レスピーギは「鳥」が大好きだった。
 この鳴き声は美しい鳴き声の「夜鳴き鶯」といわれる「ナイチンゲール」。満天の星空の下、心地よい風が渡る丘の上から、そのナイチンゲールのさえずりの響き渡るなかローマを一望する。

 そして暗い雰囲気から4拍子のリズムが弱音から徐々にクレッシェンドする執拗な上昇音型がいやが上にもアドレナリンの分泌を促し、ドルビー効果の映画館よろしく客席後方の金管別働隊が360度の臨場感を満たし、輝かしく雰囲気が変わりオルガンの重低音が心臓を揺さぶり、サラウンドの音の洪水で会場中が湧き上がる栄光に満ちた凱旋軍の行進が描写される。
 ここでは豪華絢爛、オーケストラの色彩感と輝きの極致、音のビリビリ感電ショウが展開されているというわけ。

 レスピーギが生まれたのは1879年、もうこの時代、蝋管式ではあるけども蓄音機もとっくに発明されて、我が国でも蓄音機の演奏が行われた。
 イタリアではイタリア王国による統一がナンとか成し遂げられて、そしてやっとのことでローマ教皇領だったローマを1870年に併合し、同時にイタリアの首都をフィレンツェからローマに遷都した、その9年後だった。「全ての道はローマに通ず」ヨーロッパの中心地としての栄光の歴史を持つローマを我が物としたイタリアの国民がイタリア人としてのプライドをやっと満足させるに足る領土を取り戻した。
 とはいえ、これが切っ掛けでローマ教皇との対立も生まれ、またエチオピアやリビアに侵攻し、やがて第1次世界大戦に巻き込まれ、なんとか戦勝国にはなったものの大変な出費と疲弊がそこには残された。こうなるとどこの国も右翼の台頭が起こるわけで、「古代ローマ帝国の復活」を目指すムッソリーニの登場。
 一方音楽においてもバロック以前から芸術でヨーロッパをリードし様々な輝かしい歴史を持つ音楽大国のはずが、18世紀後半以降はオペラ以外ドイツ・フランス等に新しい音楽への貢献ではねだった業績がなかったイタリアがこの頃あたりからピッツェッティ(1880~1968)、マリピエロ(1882~1973)、カセルラ(1883~1947)などが近代イタリア復古主義を興し、イタリア音楽が全盛期を誇ったバロック以前の音楽を模範とする音楽復興を始めた。このイタリア音楽復古主義と呼ばれる運動の最大の成功者がボローニャに生まれたレスピーギであった。
 イタリア復興という意味ではレスピーギはムッソリーニと大いに意気投合することとなるわけで、幾つかあるレスピーギのそれらの作品の中で、演奏効果という意味ではオーケストレーションの大家、R・コルサコフ譲りのオーケストレーション技術を駆使し、オケを鳴らしにならすこの「ローマの噴水」、「ローマの祭り」、「ローマの松」の3作品が一番成功しているのではないのか。

 古代ローマ時代から治水に関しては先進的であったローマは生活用水供給や街の景観から多くの噴水があった。
「ローマの噴水」はローマに移り住んだレスピーギがローマにインスパイアされて書いた作品。ローマの栄光の時代の噴水の描写作品。ローマの1日をその時刻にあわせて彼の選んだ噴水の情景の描写。
 但し初演(1917年3月11日)は失敗。第1次世界大戦まっただ中での初演が影響していたかどうか、戦時中に相応しい雰囲気の曲だかどうかはわからない。この頃はもうニキッシュがと言う指揮者がベルリン・フィルでベートーヴェンの「運命」などを録音していて、その録音は今日私たちでも1000円以下で手に入る。
 失敗にふてくされて落ち込んだレスピーギは楽譜をしまい込んでしまったがたが、名指揮者のトスカニーニが初演のそう遠くない後に、演奏会用に「何か新しい曲はないか」とレスピーギにせっついたので急な問い合わせに手持ちのなかったレスピーギが渋々楽譜を渡すとそれが大成功(1918年2月11日)したという作品であるのはどこかで話が出るでしょう。足かけ5年にわたる大戦終結の9ヶ月前の話。
 その成功に気をよくして次作を書いたのが「ローマの松」。「噴水」から7年後のこと。初演はその直後の1924年12月14日。ムッソリーニはファシスタ党を率いてイタリア王国の首相になっていた。
 一方レスピーギも作曲技法、管弦楽法に更に磨きを掛けて、「噴水」よりもオーケストラは大編成になり、パイプオルガンや特殊な楽器も動員し、レコード録音された鳥の声(この頃はレコードと言っても電気録音はまだされておらず、実際の再生もかなり雑音混じりの苦しいものだったと思われる。電気録音が実用化されたのはこの翌年の1925年から)や演奏会場でのサラウンド効果も狙って客席後方からステージ上とは別動隊の管楽器軍を配置している。更に演奏効果の高い曲を作ったわけだ。
 そして最後に書いたのが「ローマの祭り」。初演は1929年2月21日でこの曲はアメリカで初演された。しかも徹底的にムッソリーニを批判していたトスカニーニの指揮で。
 この頃のイタリアはムッソリーニの独裁体制が確立されていて、「古代ローマ帝国の復活」への野望が着々と進もうとしていたところで、ここでレスピーギが発表したのは古代ローマの皇帝ネロのキリスト教迫害の時代の残虐な祭りから、グッと月日は経ち1300年、キリスト教の中心地となったローマ特赦を得るために巡礼した者たち、それを迎える鐘の音。そしてローマ教皇の別荘地での葡萄の収穫祭の様子。最後はレスピーギが生きた時代の主顕祭の乱痴気騒ぎの様子。古代からレスピーギの時代までのローマの祭りを年代順に辿り輝かしい誇るべきローマの歴史を聴くという仕掛け。
 編成は「松」よりも更に大きく、特殊楽器も交えての音の大乱舞が楽しめる。
 この三部作は、レスピーギのローマ賛歌と断固たる誇り、そして音楽面でのイタリアの復権を望むその現れでもあるのだけど、イタリアはその後に第2次世界大戦で敗戦国となりムッソリーニの野望はくじかれたのはご承知の通り。
 ムッソリーニを支持したレスピーギは第2次世界大戦勃発前の1936年にこの世を去る。
 レスピーギの望んだイタリア音楽の復権に関しては、もう時代は彼の進んでいた方向ではなく、混沌の時代へと進んでいったわけです。

by yurikamome122 | 2015-05-19 17:26 | 今日の1曲 | Comments(0)