タグ:考察 ( 32 ) タグの人気記事

ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でシューマン作曲、交響曲第3番「ライン」

c0021859_714799.jpg  春爛漫、やはりシューマンは相応しく、ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団で第3交響曲「ライン」を聴いてみると、アムステルダムのコンセルトヘボウ大ホールの豊かな響きが、高原に吹く風のようでもあり、春の花曇りのような響きのオーケストラも結構豪快に鳴っていて、春の日差しの優しさを感じるように明るく、若葉が萌える深々とした森の中のように爽快すぎずロマン的で、自分のイメージしているこの曲そのものであるのです。

 シューマンのこの交響曲が、精神を患っていたがデユッセルドルフに赴任してかの地の明るい雰囲気の中、シューマンの気分も良く(そんなことはないはずだ、この時期の日記にも家計簿にも体調のかなり悪い記述がけっこうある)書かれたとか、3拍子の第1楽章がどうも「ずん・ちゃっ・ちゃ」にならずに2拍子にきこえ、リズム的にどうも居心地が悪い(これこそまさに様々に変化するライン川の水面の波のようではないか)とか、シューマンは管弦楽法がどうも苦手のようで、響きに色彩感がない(これは管弦楽法がヘタなのではなく、シューマンが意図的にそうした感じがなくもない、だんだん管弦楽法が熟達してきたはずの後年の作品の方が管楽器を塗りつぶす傾向があるように私にはきこえる。第4交響曲の改訂などはもう一聴瞭然、明らかに改定する前の方がスッキリしている。ガーディナーによれば、このシューマンの響きの重さは近代の大きすぎるオーケストラ編成のための響きのアンバランスが原因だそうだ。百歩譲って、もし響かないオーケストレーションだとしても、この演奏を聴けば感じるだろうゲルマンの魂である森の中の木霊そのものではないか。いずれにしても私にはシューマンがああいった響きをオーケストラからだそうとしていたのだと思う。)、そこでマーラーやワインガルトナーなどが楽譜に手を入れて、もっと聴き映えのする響きに変えて演奏していたなど、それらは恐らくは、そこいら中で語られていて、ゴールデンウィークまっただ中、春の心なしかハイな気分にはそんなよく聞かれる話に思いを馳せてもつまらないので、この作品が、この曲を作ったシューマンがのみ込まれていたロマン主義を時代背景とともにちょっと調べてみた。

 前期ロマン派と言っていいのかどうかわからないけど、結構メンデルスゾーンなどとひとくくりにされやすいシューマンはこの曲を書いたのが自由貿易の開放的な雰囲気に満ちていたかどうかは知らないけど、ハンザ同盟都市のデュッセルドルフの音楽監督に招かれた1850年、フランス革命から61年が過ぎている。
 7年来患っていた精神疾患が悪化し医者のすすめでドレスデンに移り住み、もう既に「タンホイザー」を発表済みだったドレスデンの宮廷楽長ワーグナーとも親交を結ぶも、ワーグナーが2月革命(バスティーユ襲撃からもう60年以上過ぎても、その余波はまだ収まっていないのでした)に参加しスイスへ亡命してしまい、シューマンの身辺が不安になったその後のことになる。
 シューマンをブラームスが訪ねる3年前で我が国ではペリー提督の黒船来航の3年前のこと。その頃のヨーロッパの文化はとロマン主義の恵みに溢れていたて、シューマンがこの曲を作ろうとしていたその頃は、後期ロマン派はもう彼の真後ろに並んでいたのでありました。
 ロマン主義は18世紀半ばに興った産業革命とフランス革命という変化に端を発すると言われている。
 産業革命による技術の発展でプロメテウスの火のように合理主義の追求で神をも恐れぬ大きな夢を見た人々は更に徹底的に合理性を追求し、さらなる夢を追いかけ鉄道や蒸気船などが生まれ人々の生活は激変の一途を辿る。しかしながら、その産業革命は農村の手工業に大打撃を与え、大都市に労働者として流入していき貧民街を構成するようになった。 科学の進歩や技術の発展は決して純粋に良いものとは考えられなくなっていった。
 政治的にも「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命の生んだ恐怖政治や、ナポレオンという独裁者の出現と言う矛盾(今のアラブ・中東情勢そのものではないか。彼らが平和と成熟をものにするには彼らの中で大きな戦いを経つつあと100年はかかるかも知れない。だけどその間にロマン主義のような稔りもあるかも知れない)がヨーロッパにロマン主義を起こす引き金となった。
 ロマン主義は冷徹な理性よりも、人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表現しようとする動きのこと。音楽においては、合理的仕組みを確立したのはバッハやハイドンで、古典派によって合理的、理性的、客観的音楽が確立された。その後にフランス革命などに触発されて、あるいは教会や王侯貴族から解放されて感情的、主観的、幻想的音楽、ロマン派の音楽の登場となり、音楽家が職人ではなく芸術家へと移行することにもなったというわけで。
 そしてそれが、ローマ帝国やその後以降の覇権争いも含んだヨーロッパ統一への動きから、民族・言語・領土の神話へのローカルな情熱へとベクトルが向かう。古典主義からロマン主義へ、即ちそれまでの古代ローマや古代ギリシャではなく、中世こそに彼ら独自のルーツがあるのだと言う思想への傾き、現代まで続くヨーロッパ分断の始まりになるのだけど、その結果音楽もローカライズされたものが徐々に増えてゆく。たとえば楽譜の楽想の表記も、シューマンは第2交響曲まで使っていたallegroやandanteにようなイタリア語表記をこの曲の前あたりからドイツ語表記に変えた。
 そして、その後は、「標題音楽」と「絶対音楽」という大変ロマン的な論争が起こり、シューマンと親交が深かった絶対音楽派のブラームスはシューマンの後押しで世に出る。そして、絶対音楽派の旗手となる。表題音楽派の旗手ワーグナーの「タンホイザー」をシューマンは盟友のメンデルスゾーンに酷評した。(ワーグナーもシューマンの音楽にはメロディーがないと酷評していた、メロディーがないって?、ブラームスを擁護していたウィーンの評論家ハンスリックがブラームスにちらりと言っていたおねだり「もう少し、もう少しだけメロディーを」と同じじゃないか)
 シューマンは、今回の曲のような交響曲を作りながら、どちらかというと彼自身絶対音楽派だと思っていたのかも知れない。
 ちなみに蛇足だけど、シューマンはワーグナーの「タンホイザー」の上演を後に接して評価に転じたとか。そしてワーグナーもシューマンに「あなたのピアノ五重奏曲はとても好きです」なんて書いて送っている。
 二人が会ったのはこの曲を書き上げる1年前、1849年シューマン39歳の時にワーグナーがドレスデンでベートーヴェンの「第九」を指揮した時に会ったのが最後だったそうだ。
 ブルックナー25歳、ブラームス16歳、マーラーの生まれる11年前の話。
その後に彼らがロマンを追い求めているうちに、植民地政策の失敗や民族紛争などにより国家間の格差はどんどん広がり第1次世界大戦の火薬の臭いがもうあたりにそこはかとなく立ちこめる頃になる。

by yurikamome122 | 2015-04-30 16:18 | 今日の1曲

ハイドン作曲、交響曲第45番「告別」をヘルマン・シェルヘン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団で

c0021859_16562096.jpg ハイドンの「ロンドン・セット」の初の全曲録音となったのはこのシェルヘンで、その後に全曲録音を目論んだかどうかはよく知らないけども、このように「シュトゥルム・ウント・ドランク期」の録音も残してくれた。オーソドックスな中、ウィーンの香りのするなかなかの演奏だと思うのです。
 ハイドンのこの交響曲に関しては、勝手にバカンスを延長した主人に対し、おつき楽団の連中が帰宅が遅れることに落胆したので、その気持ちを忖度してハイドンが作ったというのはよく知られた話で、多くのところで語られていて、コンサートのパフォーマンス的にも演奏効果と言うよりも、これは多くの場合聴き手側の問題かも知れないけど、たとえばバレンボイムあたりがニュー・イヤー・コンサートで取り上げたりしているように演奏者、主催者側が「ネタ」として重宝する曲目の1つのような取り上げられ方をしている曲ではある。
 シェルヘンはこの曲の演奏で、最後楽員がひとりずついなくなる場面で、彼らに「Auf Wiedersehen」と言わせている。
 気になって人数を数えたら全部で16人。最後の2人は指揮者とコンサートマスターのはずなので、楽員は14人と言うことになる。管楽器がオーボエとホルンが2名ずつ、そして後はファゴット1名なので合計5名、ということは弦楽器は9名という計算。現代のコンサートの編成のように第1ヴァイオリンだけで10名以上いるような編成だとすると、どこかのタイミングで弦楽器がゴッゾリ居なくなるという事態になるので、ハイドンほどの洒落た人がそんな無粋かつヘンテコな演出を容認するわけがないので、とするとコントラバス1名にチェロが2名。そしてヴィオラも2名でヴァイオリンが第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンとも2名で計9名と言ったあたりがこの曲の初演時の編成と言うことになるのかと思う。
 ハイドンがこの曲を作曲したのはハイドンが「シュトゥルム・ウント・ドランク期」まっただ中の曲と言うことになるわけで、1楽章の切羽詰まったテンポの速い短調はピリオド系演奏可能での見せ所と思っているかどうかは知らないけど、それこそ疾風怒濤の如くの演奏を皆しているのだけど、モダン楽器の方は、響きが豊かになるせいか、疾風怒濤と言うよりも運命の嵐的な雰囲気になっているあたり、モダン楽器にではちょっと分が悪いかも知れない。
 ところで、この「シュトゥルム・ウント・ドランク」、「疾風怒濤」なのだけど、エステルハージ家に就職して楽長になりその心境を表したものであるとか無いとか。
 でも、この頃の作曲家は皆職人で、そんなロマンティックなことはあり得たのかどうか。

 ハイドンは、ハンガリー王国領との国境にあるニーダーエスターライヒ州ローラウ村に誕生したのはフランス革命の約50年前、アメリカではイギリス帝国13植民地が成立した1732年の3月31日であった。日本では江戸幕府8代将軍徳川吉宗の時代。
 同業の同年代ではバッハの子供達もそうなる。そしてハイドンの初めの頃の作品はバロック的な印象が感じる気がするのも事実。ところが後期にさしかかり、「パリ・セット」の頃あたりからロマン派の香りがしてくるのは別のところで記した通り。
 はさておき、ハイドンの家庭はと言うと、ハープと歌が好きな車職人の父と宮廷料理人の母親。ヨーゼフ・ハイドンがまじめで職人気質で器用なのは両親譲りなのかも知れない。
 音楽好きの父親の影響を受け、幼い頃から音楽では才能が認められて、歌がうまかったのはヨーゼフとこの下の弟ミヒャエル。どちらも音楽史に名を残すわけど、このヨーゼフはと言うと6歳の時に父のハープの演奏に合わせて歌うハイドンの歌声に惚れ込んだ親戚のマティアス・フランクと言う人がヨーゼフの両親を説得し、ヨーゼフを自分の家に住ませ、音楽に対する英才教育を施し、いろいろな楽器と音楽に関する知識と教養を身につけさせた。

 美声の持ち主だったヨーゼフは、オーストリア継承戦争が勃発した1740年、8歳の時にウィーンの聖シュテファン大聖堂聖歌隊監督ゲオルク・フォン・ロイターが派遣した聖歌隊員発掘隊が偶然聴いた若きヨーゼフをスカウトし、ヨーゼフはウィーンでシュテファン大聖堂聖歌隊員として大聖堂はじめ他の教会のミサでの奉仕、皇帝や貴族の宮廷で催される音楽会や宮廷行事にも出演しつつ、カトリック教理、ラテン語、一般学校の教科が教えられた。これに加えて音楽教育が加わる。それは歌唱をはじめオルガン、チエンバロ、ヴァイオリンの演奏を学べ、ウィーンの他の学校で演じられたラテン語劇に歌手として出演など、声変わりになって解雇されるまで音楽的に大いに実りある9年間在籍することになる(1740-49年)。
 このとき、シェーブルン宮殿で歌った時、ハイドンが建築の足場に登って騒いだという逸話があって、オーストリア継承戦争でさぞ頭を悩ましていたであろうマリア・テレジアに直々に厳しく怒られたという話がある。
 つまり、権力者に物怖じすることなく、「告別」や「うかつ者」「驚愕」などで貴族達に謎かけや悪戯を仕掛けるやんちゃな悪戯好きは根っからの性分だったようだ。
 折しも華やかなウィーンの巷ではヘンデルやヴィヴァルディの音楽ももて囃されていた時期であった。
 1745年の秋、ヨーゼフよりもおそらく歌がうまかった弟のミヒャエル・ハイドンもこの聖歌隊に参入。そしてまもなく兄ヨ-ゼフは変声期を迎えたため、ヨーゼフが得ていた聖歌隊のソリストの地位をミヒャエルに奪われる。
 世間知らずのヨーゼフをカストラートにしようという陰謀にのせられて、その気になりつつあったところをすんでの所で父親の乱入で救われた彼は、変声期もあったけど、ヘンテコな濡れ衣を着せられて、聖歌隊を17歳の歳、1749年に混乱でまだ定職を見つけられないまま残念ながら11月の冷たい雨の降る夜に聖歌隊から追い出されて解雇される。
 捨てる神あれば拾う神あり、街でばったり会ったミヒャエル教会の聖歌隊員ヨハン・ミヒャエル・シュパングラーに泣きつき、幼い子供がいる賑やかな家庭に転がり込んだ。そして、音楽家の卵のアルバイトと言えば今も昔も同じ、ダンス音楽や劇の伴奏などをして生活費を稼ぎつつ、これもヨーゼフにとりよい経験だった。
 やがてそんなヨーゼフに目を付け出資するスポンサーが現れる。やっとシュパングラーの家から独立することになった。
 そして次はウィーンの様々な職人達が一つ屋根の下で暮らすミヒャエラーハウスの6階に居を構える。まるで戦後の漫画家の集まった「トキワ荘」のようなここでは、青春まっただ中の若者らしく同居の友人達と青臭い夢を見ながら、様々な作品を発表しつつ、そして上に下に、右に左に幅広く人脈も拡げていった。
 ヨーゼフ27歳の1759年頃、ボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長の職に就いた。定職である。初めての宮仕えで戸惑いながらも精一杯勤める中、モルツィン伯は経済的な苦境にあった。そしてヨーゼフもここで「人生最大の失態」(ヨーゼフ談)を犯す。本命の彼女に振られて、傷心の彼は自暴自棄かどうかはわからないけど、彼女の父親から本命の姉アロイジアを体よく押しつけられてしまう。1760年、28歳の時にアロイジアと結婚をする事になってしまった。
 音楽家の「悪妻」として歴史に名を残す彼女との結婚、ヨーゼフが不幸なのかアロイジアが不幸だったのかはよくわからないけども、いずれにしても後世よく言われないのは不幸な事だと言うことで。
 いよいよ破産寸前のモルツィン伯は泣く泣くヨーゼフを解雇する。
 ここでまたまた拾う神が現れる。オーストリア継承戦争で大いに名をあげて大出世したエステルハージ侯爵その人。以前からある宮廷の聖歌隊に加え楽員を拡充し13名(たったこれだけ。今日のハイドン演奏は人数多すぎと言われればそうかも知れない)の宮廷楽団を組織した。
 フランスがイギリスの北米を奪われた(これが後のフランス革命の引き金になるわけだけど)翌年で、ヨーロッパでは7年戦争まっただ中で戦費にあえぎ、オスマン・トルコ脅威にも怯えていたオーストリアで、日本では徳川幕府が第8代将軍吉宗から9代の家重になった1761年、29歳でエステルハージの副楽長にヨーゼフは就任する。今まで聖歌隊を率いていた楽長ヴェルナーはもう高齢でいつをも知れない、実際の楽長はヨーゼフであった。
 貴族でありながら実は有能な軍人であり、音楽に造詣と理解が深いエステルハージ公爵の元、やりがいのある充実した条件での仕事に大いに奮ったヨーゼフなんだけど、1766年、楽長ヴェルナーが死去するとヨーゼフが楽長に昇格し、このエステルハージ宮廷楽団とともに名声を高めていく。
 このあたりからヨーゼフの曲は今までとは気分が変わり、ヨーゼフの物怖じしない性格もあってか、自己の感情を曲に影響させたという「シュトゥルム・ウント・ドランク期」と言われるまさに激しい「疾風怒濤」を想わせる曲をたくさん作っていくわけでした。

 となると、実はこの「疾風怒濤」は連戦連勝のオーストリアの「英雄」(であったかどうかは知らないけども、元帥にまでなった)軍人であるエステルハージ公爵の希望でもあった可能性が無くは無いか?。
 いくらハイドンとは言え、この頃はまだ作曲家が職人だった時代、自分の思いをそんなにも曲に反映していい時代では無かったように思うのだけど、それに時代が安定してくるとこの「疾風怒濤」も変化をして終わってしまう。
 7年戦争も終結し、楽長に昇格して6年後の1772年「疾風怒濤期」のまっただ中に作曲されたのがこの交響曲第45番「告別」というわけ。アメリカ独立の引き金になったボストン茶会事件の1年前、そしてフランスではまだ国王になっていないルイ16世がマリー・アントワネットと結婚した翌年、フランス革命の17年前のことでありました。
 

by yurikamome122 | 2015-04-28 16:56 | 今日の1曲