ちょっと崩れた美について、ラヴェルとドビュッシーの違いなど。ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら
ラヴェルという作曲家は、とても古典的だと思ってた、フォルムがカチッとしていて。
聴いてみてそう感じていたのだけど、確かにそういうところもあるのだとやっぱり思うのだけど、それでいてなんでラヴェルの音楽がこんなに美しいのか、なんでこんなに緊張を強いるのか、ここのところ故あってラヴェルとドビュッシーとサン=サーンスとフォーレばっかり聴いていたんだけど、シューマンやワーグナー、リストなんかをちょっと聴いてみたらなんだかわかるような気がしてきた。
ラヴェルって禁欲的なんだよね、きっと。そしてその禁欲に宿る人間的、動物的感性と本能とのせめぎ合いの緊張感。
リストの「巡礼の年」3年の中の「エステ荘の噴水」にインスパイアされてラヴェルが「水の戯れ」を書き、ドビュッシーは「映像」第1集の「水に映る影」を書いた。この2曲の違い、水面の動き、その揺らめきに映る影のドビュッシー、ラヴェルは水面が見えないくらい透明な「水の戯れ」。この整ったような透明感。
繰り返し延々と同じメロディーを執拗に繰り返すリズムとともに徐々にクレッシェンドで聴き手を陶酔の坩堝からエクスタシーの境地で解放するあの「ボレロ」なんて、セックスそのものじゃないか?。だいたいあの変態的なピッコロとホルンの二重奏はナンなんだと。だけど響きはあくまで透明で美しい。
それをたとえばワーグナーのようにムワッとした臭いのする場末の映画館で外国製のポルノ映画を見たような曇った下品な、またドビュッシーのようにそのものズバリではなく、ラヴェルはこういう動物的な逞しい情熱的なものは美しいとは感じなかった、きっと。
なので、ラヴェルは古典的と言うよりも、人間くさい性愛、愛欲をむき出しにしたようなロマン派の音楽のようなものよりも形式を持った古典的なものに美しさを感じた。そしてそこに性愛、愛欲をこういう形で抽象化し昇華する、それがこの人の音楽の世界なんではないのか?。
ワーグナーはその下品さを壮大な、ヒロイックなイメージで湧き起こる聴き手のイマジネーションにより聴き手が形而上的に受け取る事を要求しているのかもしれないけど、ラヴェルは違う、もう既に昇華し洗練された結晶がそこにあって、即ち透明に「崩れた」美をそこに現している。そう私は感じる。でもだから、聴いていて疲れる。それに引き替えドビュッシーのあの官能的な安らぎ。
そういえば、私が個人的に西洋の庭園よりも日本の庭園に親近感とより深い美しさを感じたりするのは、西洋式の庭園の明らかに一点から見ることを意識して調和を求めたものではない、枯れ葉1枚もゴミではなく、その崩れたものさえも美しく見せる、そういうところなのかもしれない。でも、日本庭園、枯山水は見ていて疲れる。
ラヴェルの自宅の部屋には浮世絵が飾ってあって、和風の部屋もあったそうな。
やっぱり和風の趣味があったチェリビダッケのとってもエッチなボレロを聴きながら。
by yurikamome122 | 2015-05-22 14:25 | 今日の1曲 | Trackback | Comments(0)